Alice In WWW

 わたしはしらない


アリス。



 そう名前を呼んでくれたあの人は、はにかんだような笑顔が似合う人だった。
 少し不器用で、ストレートな愛情表現をしない人で、嫉妬とかとも無縁だったように思える。

 大切に愛を育んでいけるような人だった。

 素朴な笑顔が好きだった。
 裏表がなくて、触れるようなキスに浮き立つような気持ちになった。


 そんな人に名前を呼ばれるのが好きだったのに。



「アリス」


 今、自分の名前を呼んでいる男から、アリスは視線を逸らした。
 ソファに座るアリスの隣に腰をおろし、男は彼女の手から本を取り上げる。
「邪魔しないで」
 意味がないと判っていても、一応、抵抗してみる。
「私は退屈している」
 と、やる気の欠片もない低音が耳を打った。
「退屈で退屈で仕様がない」
 ちらと小さく笑う。唇に漂う、薄い笑みが脳裏にありありと浮かんで、アリスは無理やり意識を引きはがした。
「仕事は?」
 出来るだけそっけなく言うと、男は「片づけてしまった」と面白くもなさそうに言う。

 そんな姿、見てないわ。

 ちらと彼の執務机を見やり、アリスはようやく男に視線を向けた。緑色の瞳が間近にあり、自分を覗きこんでいる。
 片腕をソファの背もたれに回し、もう片方の手はアリスを挟んで反対側に降ろされている。
 抱きこまれるように囲われているのに気付き、彼女は再び視線を逸らした。

「本でも読んだら?」
「あらかた読んでしまった」
「また読めばいいじゃない」
 私も読んでるんだし。

 彼によって取り上げられた、先ほどまで読んでいたそれの背表紙を見る。

「そんなことよりも、私は別のことがしたい」
 吐息が耳に掛り、びくりとアリスの肩が震える。
「君は嫌か?」
 その反応に気を良くしたのか、男は笑う。きっとアリスは彼を睨みつけた。
「嫌」
「どうして?」
 更に更に愉しそうに笑い、男は顔を寄せる。唇が触れそうな距離で囁く。
「毎回あんな顔で見つめて、強請るのに?」
「何をよっ!」

 かっと頬に血が上る。ぐい、と肩を押し、アリスは顔をそむけた。
 耳元で笑う男に、むかむかした思いだけがあふれてきた。

(全然似てない)

 男の手が、背中に回り、肩を掴むアリスの指に力がこもった。押しのけようとすると、「それは煽っているのかな?」と逃げ出したくなる程愉悦の滲んだ声が降り注いでくる。

 力では叶わない。

(・・・・・本っ当に似てない)

 倒されるのに、最後まで抵抗しながら、アリスはふくれっ面で目の前の男を見た。

 ブラッド・デュプレ。

 帽子屋ファミリーと呼ばれるマフィアのボス。
 この狂った世界の領土争いを終結させそうになった男。
 そして、その勝利の道を気分でぶち壊した男。

 自分の初恋の人と同じ顔、同じ姿のこの男の、余りに違う振る舞い。

「考え事かな、お嬢さん?」
 ぼうっと見惚れていた。
 それに気付いて彼女は、慌ててブラッドから視線を逸らした。それが、ブラッドの勘に触った。
「何を考えていた」
 鋭く低い、反論を許さない声。全てを支配しようとするオーラを感じて、アリスは視線を逸らしたまま「全然違うってことよ」とかすれた声で答えた。

「・・・・・・・・・・・・・・・君の昔の男か」
 舌打ちと共に吐きだされた言葉に、アリスは目を閉じた。
「そうよ」
「気に入らないな」
 乱暴な手つきで胸元のボタンをはずされて、吐息が掛る。顔を埋める男が、彼女の肌に痕を残そうとする。
 首筋に、鎖骨に、胸元に。
 感じる口付けが熱くて、アリスは唇をかんだ。
「ええ、気に入らないわ」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 頬を掴まれて、彼の方を向かされる。アリスは緑の瞳で男を見返した。
「男のくせに」
「・・・・・・・・・・」

 予想していたのとまるで違う台詞を言われて、ブラッドが虚を突かれたように、微かに目を見張った。

 男のくせに。

 見上げるブラッドは色気がある。
 素朴な先生とは比べ物にならないほど。
 魅力やカリスマ、人を惹きつけてやまない、深い夜のようなオーラ。

 彼の纏う空気は一貫して妖しく、近づくものを絡め取る。

 先生とは違う。
 いつくしみ、二人で育てるような愛し方とは違う、何もかも奪って染め変えていく愛し方。

 絡め取られて、動けない。

「なんなのよ・・・・・」
 吐きだし、アリスは枕に顔を埋めた。


 アリス、とちょっとはにかんだように名前を呼ばれるのが好きだった。

「アリス」
 こんな風に、嬉しそうに、にやにや笑っている姿が想像できるような声音で呼ばれるのは好きじゃないというのに。
「アリス」
 甘い甘い、全身がしびれそうな声で呼ばれる名前は、好きになれない。
 かすれた声が、欲望の滲んだ声が、私の全てを支配下に置こうとする声が、嫌い。

 嫌いなのに。

「アリス」
 そっと肩に触れて、髪に触れて、耳元を掠める指先。首をなぞり、胸元に遊ぶ手に、思わず顔を上げると、顎を捉えられ彼の方を向かされる。

 緑の瞳が、深い色を浮かべて自分を見下ろしている。愉しそうにしているくせに、その瞳が優しくて、アリスは泣きそうになった。
 勘違いするのはごめんだというのに。

「なんなのよ、とは何だ?」
 言ってみろ?怒らないから。

 微笑む男の、なんと妖しく色気のあることか。むくれて、目に涙を滲ませて睨むだけのお子様の自分とはぜんぜん釣り合わない。
 ああ、釣りあわない。

 ブラッドの広い胸を押しやり、アリスは睨みあげたまま低く答えた。

「遊ばれるのは嫌なの」

 余裕のあるブラッドが気に入らなくて、そういう。腕から抜け出そうとして、ふと、見上げた男が、奇妙なものでもみるようにして己を見下ろしているのに、アリスは急に不安になった。

 そういえば、似たような事が無かったか?

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ち、ちが」

 気付いて、アリスは慌てて訂正しにかかった。これではあの時・・・・・ソファは嫌だといった時と同じだ。
 まるで、遊びじゃない関係を求めているようだ。

 そんなの、二人とも求めていない。

 建前として、そういうスタンスを取っていたから、情婦まがいのことも出来ていたというのに。

 取っ払ってしまったら、堕ちるしかない。

 つい漏れてしまった本音を隠すように、アリスは必死に言い訳をしようとする。こんな事を言い出すアリスを、ブラッドは重く感じるかもしれない。
 最悪、飽きられてしまうかもしれない。

 そうなったら、アリスは居場所がなくなってしまう。

 取り繕うとする彼女の、その唇を、男は強引に塞いだ。

「っ」

 全てを奪っていく口付けに、アリスの儚い抵抗力は奪われていき、最終的にはなんとか応えようとする。
 可愛らしい彼女の仕草に、唇を放したブラッドは笑んだ。

「君が、本気を求めていたとは、気付かなかった」
「っ」
 かああっと真っ赤になる彼女を見下ろす。ブラッドは片手をソファにつき、空いた片手でタイを緩めながら口の端を引き上げた。
 音がして、それが床に落ちる。
「いくらか手加減をしてたのだが・・・・・そうか。物足りなかったか」
「だ、だれもそんなことっ」
 むしろ、あれで手加減なんて言うこの男の基準がまるで判らない。
「悪かったな、アリス」

 ああ、だめ。やめて。そんな風に呼ばないで。

 気づけば、アリスは抱きあげられて、傲慢なこのマフィアのボスにベッドに連行されてる。

「ブラッドっ」
いやいやするように首を振るアリスを下ろし、ブラッドは口づけを落とした。

「君が望む愛し方を、是非教えてくれないものだろうか?」


 教えを請おうと言うには、その顔は不敵で不遜で傲慢で強引で。

 アリスは力いっぱい愛しい人を睨んだ。

 このひとをあいしているなんて、ぜったいにさとらせてなるものか。

(こんな・・・・・人を物みたいに言う人を・・・・・)


 アリス。


 いたわるように呼んでくれたその声が、リライトされていく。
 慈しむような愛が形を変えていく。

「アリス?」
 見下ろす男に、手を伸べて、アリスは眉間にしわを寄せたまま言い放った。

「望むとおりにしてくれるのなら、何もしないで」

 睨みあげる恋しい人に、ブラッドはそれはそれは楽しそうに笑った。

「生憎だが、そんな愛し方を、私は知らない」




(2009/10/15)

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