Alice In WWW

 アンバランス
 逃げたわけじゃない。
 ここに残ろうと決めたのだ。
 ここにいる人たちが好きだから。友人だから。だから。


「嫌いになったわけじゃないわ」

 帽子屋屋敷の最上階。巨大なガラス窓が長々と広がるフロアにアリスは一人で立っていた。
 空には、細い三日月が掛り、藍色の闇が世界を占めている。

 まるで深い海の底のようなそこを、クジラが一頭、ゆったりと泳ぎまわってた。
 時折腹を見せて飛び上り、無いはずの水滴がきらきらと輝くのが見える。

 海と森がまじりあっている、曖昧な時期。

 森クジラ、なんてエリオットが真顔で言っていたが、あれは本当はなんなのだろう、とアリスはガラスに手をついて考える。

 森クジラ、という名称から考えるなら、あのクジラの滞在場所は「森」で、「森」で一生を終えるのだろう。
 だが、ブラッドの言う事を考えるなら、あれは本来は海の生き物で、引っ越し後の境が曖昧な時期に、迷い込んできたのだと言う事になる。

 でも、海の生物が森で生活することは出来ない。
 根本的に、生息できる場所が違うのだから、当然だ。

 なら、なぜあのクジラは森を泳いでいるのだろう?
 それはやっぱりあのクジラは森を生活の拠点としている存在だからだろうか。
 だったら、元からいたはずなのに、どうして今ここに居るのだ?
 そして、世界が安定したら、元の場所に戻るのだと言う。

「世界が安定したら・・・・・」

 元から狂っている世界が、今は更に狂っているのだと言う。

 境が曖昧。どこかとなにかが交じりあう。海と森が繋がる。

 迷い込んだ存在は、しかし、やがて帰っていくのだ。

「私も・・・・・?」

 ぽつりとこぼれた言葉が、床に落ちて転がる前に、「何がだ?」と拾い上げる声が響いた。
 はっとして振り返ると、不機嫌そうな顔をした男が、こちらをじっと見つめていた。ドアにもたれかかり、一つ鳴いたクジラの声に、おもしろくもなさそうに眉を寄せる。

「・・・・・・・・・・あのクジラは余所者なのよね」
 やがて帰るのだ、という曖昧な思いを隠して、アリスは別の答えを提示する。身体を浮かせたブラッドが、だるそうな足取りで彼女の隣に立った。
 ちらと見上げると、眇めた眼差しが森クジラに注がれていた。
「さあ?そうとも言えるし、違うともいえる」
「・・・・・・・・・・」
「どちらでもあるな」

 あっさり言い切るブラッドから視線を逸らし、アリスは黒々と影絵のようになって泳ぎまわるクジラに視線を戻した。

 よそ者であると言えるし、違うともいえる。
 どちらでもある存在。

「・・・・・・・・・・でも、彼らはやがていなくなるのでしょう?」
 かすれた声で、ぽつりと尋ねる。広々として、何もないフロアに、その台詞は聞き捨てならないほど大きな音で響いた。
「そうだ」
 元居た場所に戻る。

 軽く目を伏せて答えるブラッドに、アリスは「そう」とだけ答えた。

「ここが彼らの居場所じゃないから、ね?」
 ガラスに置いた手を握りしめるアリスを、ブラッドは強引に抱き寄せた。驚いて身を固くする彼女を、両腕に閉じ込めて、ブラッドは唇を彼女の耳に寄せた。
「私は、どちらでもあると、言わなかったか?」
 きつい腕に、圧迫されて、息苦しい。それでも、ここで息が止まるのなら、それはそれで楽しいじゃないかと、アリスはどこか遠いところでぼんやり考えた。
 抵抗もなく、されるがままにブラッドに身を預けて、アリスは視線を上げた。
 手を上げて、彼の背に回す。

「そうね。」
 ぎゅっと抱きつくと、首筋に口づけられた。そのまま、歯を立て、吸いつき、舌を這わされる。
 くっきりと肌に痕が残るころには、アリスは腰が砕け、彼の腕に支えられてようやく立っているだけだった。

 冷たい床に押し倒される。

「どちらでもある、ということは」
 蒼い光が窓ガラスから煌々と差し込んでくる。三日月が目の端に映る。見下ろすブラッドを見かえして、アリスは静かに続けた。
「どちらでもないという事にならない?」

 どちらでもない。

 あっちでも、こっちでも、存在を認められない。

「君は・・・・・」
 視線を逸らすアリスに、呆れたようにブラッドが溜息をついた。どこまでも自己嫌悪が好きなお嬢さんだ、と揶揄するように言われる。
「そういう性分なの」
 ぼそりとこぼす彼女を、腕に閉じ込め、身体の重みを掛けながら、ブラッドは酷くゆっくりと彼女に口付けた。
 彼女の熱を確かめるように、とろとろとした手つきで彼女の身体を弄っていく。
「アリス」
「・・・・・んっ」

 つ、と喉から鎖骨に向けて滑らされた指先に、彼女の身体が震えた。高く、クジラが鳴くのが聞こえる。

「私の手が、判るか?」
「・・・・・・・・・・」
 涙の滲んだ眼差しで睨まれる。何を言うんだ、とそう告げる反抗的な眼差しに、ブラッドは柔らかく笑った。
「感じるか?」
「・・・・・・・・・・ブラッド」
 変態、と嫌そうな顔で言うアリスに、男は口付けた。
「そんな顔で、感じてません、なんて言うつもりはないだろう?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 悪態を突こうとする唇を、再び塞ぐ。漏れる声はつやっぽく、彼女の肌は熱を帯びて柔らかく手に吸いついてくる。
「それでいい」
「何が、よ」

 睨みつける彼女の目じりに、指を沿わせ、あちこちに口づけを落としながら、酷く緩慢に彼女を抱く。

「私だけを感じていろ」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「それだけで、十分だ」

 体温を分かつ。
 相手がいる。
 目の前に。

「全身で受け入れろ。しがみ付け。」

 そうすれば、消えやしない。

 柔らかな口調で命令される。じわりと涙が滲み、アリスは縋るように彼に手を伸ばす。

 どちらでもないクジラが鳴く。
 やがて、境目は終わりを告げて、クジラは選んだ場所に帰る。

 海にしか住めないのだからと、海に帰る。
 それは、海にすむ生物の義務だから。
 それとも、海に飽いたクジラは、また別の世界へと泳いで行くのだろうか。

 確かめるすべはない。

 アリスもまた、クジラに構っている場合ではないのだ。


 戻らなくちゃならない義務。
 心配を掛けている相手。
 許されたいと願う気持ち。

「貴方が関わる女性の一人で良かったわ」
 かすれた声が耳朶を打ち、ブラッドは眉間にしわを寄せる。何か言おうとするより先に、アリスは気持ちの読めない眼差しを彼に向けた。
「捨てられたら、堂々と帰れる」
「君は誤解している」

 抱きつぶしても、離す気はない。

 まっすぐに放たれた、この男らしい、弾丸のような台詞。

 それに、自分の義務感が粉々に砕ければいいのに、とアリスは目を閉じた。


 どちらでもない。
 どちらでもある。

 私は、どちらかを選ばなくちゃいけない。

 それが、私のゲームのルール。


「ブラッド・・・・・」
「ん?」
 全身で、彼を受け入れて、求められているという事実に目を閉じ、境目を追いやる。
「いつかあなたが私に飽きたら」
「・・・・・・・・・・」
「その時は・・・・・覚悟して」

 ふっと笑うブラッドが、彼女の足を持ち上げた。

「退屈しないお嬢さんだ」





(2009/10/05)

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