Break Heart





 いつものエプロンドレスに着替え、彼女は広い広い帽子屋屋敷の庭を歩いていた。
 空には、零れ落ちそうな程沢山の白い星が輝いている。
 月は無い。
 彼女はそっとスカートのポケットに指を這わせて、固い感触が無い事に言い知れない不安を感じた。家の前に辿りつき、その扉を開ける為の鍵を、いつの間にか落してしまったような、そんな焦燥感が溢れてくる。

 強風吹き荒れる、あちらとこちらの狭間。そこで彼女の手から小瓶が滑り落ち、遠く彼方へと吹き飛ばされていった。
 その瞬間、アリスは確かに絶望したのだ。
 もう二度と帰れないのだと。
(でも・・・・・心のどこかでは安心していた・・・・・)
 この世界に残る口実が出来たと。絶望する半面喜んだ。

 冷たい石畳を踏み占め、アリスは黒々と枝を広げる木立ちへと向かって行く。遠く、噴水から水が零れる音がし、電燈の灯が丸く、庭の草や敷き詰められたタイルを照らしている。小道の端に据えられたベンチに腰を降ろし、アリスは来た道を見遣った。

 黄色い光を、沢山ある窓に灯した屋敷が、夜の中で堂々と聳え立っていた。
「小瓶を失くしただけでは、この世界に繋ぎとめておけないのかしら」
 明日か明後日には結婚式を上げる、と堂々と宣言した男は、その為に持ちあがっている懸念事項を片付ける為に屋敷に居ない。
 先程の夕方までアリスを抱いていたくせに、今はその腕を血に染めて、敵対勢力の排除に乗り出しているのだろう。

 本来ならば、もっと利益になる結婚が有ったのではないだろうか。
 それを彼は考えていたのでは?

 なのに、どこからともなくやってきた余所者の女を、ここに留めておくために結婚しようとしてるなんて、どうかしてる。

 自らの膝を引きあげて、アリスは両腕に抱え込む。ひんやりとしたスカートのブルーに顔を埋め、彼女は目を閉じた。

 甘やかな花と草と木々の香りのする夜気が彼女を包みこむ。気温はいつでも適温で、寒くも無く熱くも無い。
 空には気まぐれで月が昇り、雨は一切降らない。
 異世界にあるとはいえ、アリスの身を包むモノはすべてホンモノで、そして感じる風も元居た世界となにも変わらない。
 目を閉じれば、ここが自分の家の庭先だと錯覚出来るだろう。

(静かだわ・・・・・)
 鍵を失くした子供は、家に帰れないと泣く。
 鍵を失くした大人は、悪態を吐いてドアを壊す。
 では、鍵を捨てた少女は?

(結婚なんて考えたことも無かった・・・・・いつかはするんだろうな、とは思ってたけれど・・・・・)
 それがどんな相手なのか、具体的に想像したことも無かった。
 ブラッドの事は好きだし、物凄く心許ないが愛してると思う。でも、結婚して上手くやっていける自信は微塵も無い。
 彼だってそうだろう。
 アリスの事を愛してるだのなんだの言うが、結婚までする必要性は無いだろう。

(やっぱり・・・・・間違ってると思うわ・・・・・)
 売り言葉に買い言葉で、結婚しようと言われて否定した。考える余裕も無かった。でもそれはきっと、相手にも言えることだ。
 ブラッドが自分と結婚なんて考えられない。

 受けられない、受けちゃ駄目。

 鍵を捨てた少女は、新しい鍵を手に入れるだろう。でも、それはきっと、こんな鍵じゃない。

「アリス!」
 刹那、切羽詰まったような声が静寂をかき乱し、彼女はのろのろと顔を上げた。
「・・・・・ブラッド」
 電燈に照らされて、白く輝く小道を普段の倍くらい機敏な足取りで男が歩いてくる。やや青ざめた顔色に、アリスは何かあったのかと咄嗟に立ちあがった。
 無いとは思うが、敵対組織になにか甚大な被害を被ったのだろうか。
「こんな所で何をしてる!?」
 加減の無い強さで手首を掴まれて、アリスは目を瞬いた。彼の碧の瞳には、赤々と怒りにも似た色が灯っていた。
「何って・・・・・別に」
「用も無いのに屋敷から出るな」
 頭ごなしに命令されて、アリスはむっと眉間にしわを寄せた。
「敷地内に居るじゃない」
「そう言う問題じゃない」
 ブラッドは苛立たし気にアリスの腕を引っ張り、有無を言わさず屋敷の方へと引きずるようにして歩き出す。
「放してよ!」
 痛い!!
 訴えるように声を張り上げ、アリスはもぎ取るようにして自分の腕を取り返す。振り返るマフィアのボスから、距離を取る。
「・・・・・・・・・・結婚式は明日だ」
「・・・・・・・・・・知ってるわ」
「今更、逃げようなんて考えてないだろうな?」
 ひたと見詰められて、アリスはその碧から思わず視線を逸らした。ぎゅっと手を握りしめる。
 さあ、何から言おう。

 結婚なんてしなくても、私はここに居るから、ブラッドも好きに生活すればいい。
 わざわざ縛られるような真似をしなくても、大丈夫だから。

 そう言えばいいのだ。ちょっと前まで、そう告げるつもりだったのだし。

 顔を上げて切りだそうとした瞬間、アリスはいきなり握っていた手を取られ、乱暴に引きずられた。
 突然の出来事に、怒りが瞬間沸騰する。
「だから痛っ」
 強引に指を引っ張られ、固く結んでいた拳を開かれる。
「っ」
 彼女の掌を確認し、ブラッドは詰めていた息を吐きだした。微かに、肩が震えている。
「・・・・・・・・・・ブラッド?」
 思わずいぶかしむ様に尋ねると、彼はじろりと威圧的な視線をアリスに注ぎ、問答無用で彼女の衣服に手を掛けた。
「なっ!?」
 暴れる彼女の両手を器用に掴み、口付ける。ぶつけるような乱暴なそれに、アリスの目蓋の裏が、血を塗り込めたように紅く熱くなった。
「んっ!!」
 噛んでやろうと、アリスを蹂躙する舌先を捕えようとして、強引に肩を押される。突き飛ばされるような形でベンチに倒れ込んだアリスは、圧し掛かってくる男を信じられないものでも観るような眼差しで見上げた。
「なっ」
「君は帰れない」
「っ」
 きっぱりと断言し、ブラッドはアリスの首に歯を立てる。急所を抑えるように噛みつかれて、身体が跳ねるようにして震えた。
「帰れないし、帰さない」
「知ってるわ・・・・・」
「絶対に帰さない」
 血の滲んだ肌に舌を這わせ、ブラッドは怯えて震えるアリスの服のボタンを乱暴にはずしていく。
「やめ」
「やめない」
「あ、痕付けたら一生恨んでやるから!!!」
「おや、それは是非つけたいものだ」
 ぞっとするほど冷たい笑みを浮かべるブラッドに、アリスはざあっと青ざめた。明日は結婚式なのだ。ドレスは割と露出が多い。
「嫌だったら!止めてっ!!!」
 アリスの服を脱がせ、下着もずり下げ、現れた真白い胸に顔を埋め、キスを繰り返す男の髪を、彼女は渾身の力で引っ張った。
「嫌だったらっ!!!」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 夜の静寂に、彼女の悲鳴は滑稽なほど大きく響き渡った。ブラッドの冷静さを呼び戻すほどには。

「君は、本気で私を拒絶するつもりか?」
「キスマークがついた肌を晒してヴァージンロードを歩く程趣味は悪くないわっ!!」
 泣きそうな声で訴える。実際泣いている。アリスの翡翠の瞳から、ぼろっと透明な涙がこぼれて、見下ろしていたブラッドははっとした。
「・・・・・・・・・・君はヴァージンロードを歩くつもりなのか?」
 驚いたように見下ろすこの男を撃ち殺したい。かあっと真っ赤になった顔が、徐々に青ざめ、胃が痛くなる。
 確かに。
 確かに、ヴァージンロードを歩けるような身体じゃない。散々辱められた。でも辱めた相手がそんな事を言うなんて。
「あなたって本当に最低ねっ!!!」
 喚くように告げて、彼女はありったけの力を込めてブラッドの肩を押した。
「初夜まで取っておくなんてこと、させてくれなかったじゃない!」
 ああ、こんなのまるで馬鹿な女のすることだ。それでも言わずにはいられない。
「そう言うつもりで言ったんじゃない」
「煩い!もう、私に触らないで!」
 ヒステリーだと自覚はある。ブラッドが、ヒステリーな女に心底嫌気がさしているのも知っている。

 ザマミロ。彼はこの世で一番嫌いな女と結婚しようとしてるんだ。

「アリス!」
 喚くだけ喚いて、後はダッシュでその場を去ろうと考えていたアリスは、再びしっかりと抱きしめられて眩暈を覚えた。
「落ち着きなさい」
「落ち着いてるわよ、この上なく!」
「落ち着いてなど居ないよ」
 やれやれ、と溜息を吐かれ、そもそもの原因は彼だと言うのにと、また腹が立つ。
 だが、抱きしめる腕は温かく、包まれた胸は広く、触れる空気は熱い。ブラッドの香りがして、アリスは指の先から力が抜けていくのを感じていた。

 この人は本当に碌でもない。
 アリスを絡め取ってふやかしていく。

「・・・・・・・・・・・・・・・貴方に結婚なんて似合わないわ」
 ぽつりとこぼれたアリスの本音に、ブラッドは眉間に皺を寄せると「そうか?」と柔らかく問い返した。
「結婚なんかしたら、大変よ?」
 離婚する時に、莫大な慰藉料を請求するわ。
「・・・・・結婚する前から離婚の心配か?」
「当然よ・・・・・だって、貴方は本当は・・・・・」
 結婚、なんて契約の一種で。結局彼は、アリスに飽きたら彼女をいとも簡単に手放す筈だ。
 アリスが唐突に帰ろうとしたから、逃がさない為の鎖を付けようとしているだけ。

 じわり、と涙の滲む彼女の、ブラッドの上着を掴む手に力が籠る。気付き、彼はぎゅっと抱きしめると彼女を緩やかにベンチに押し倒した。

「知っての通り、私はマフィアだよ、聡明なお嬢さん?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「なら、判る筈だ。私がただ単に、この世界に君を残して置こう、ただの玩具として側に置いておこうと思ったのなら、君の手足を奪い、思考を奪い、奥深くに閉じ込めて、誰の目にも触れない様にすることなどたやすいと言う事を」
 煌めく星々の下、見下ろす碧の瞳は深い色味を湛えている。冷たく凍る様な光が宿ることもあれば、赤く物騒に輝く事のあるそれが、今はただおかしそうな、面白がるような色を滲ませ、衣服を乱されたアリスを映している。
 柔らかい、日の光りを浴びて、のんびりと風に揺れる木の葉の様な色味。
「なのに私は、君に自由を許し、君が屋敷で快適に過ごせるように許可を出した」
 私のお茶会に参加をさせ、客人としてもてなした。
「私は君に、首輪を嵌めた事が有ったかな?」
 尋ねる口調なのに、そこには絶対の自信が滲んでいて、アリスは口をつぐむ。
「十分私は紳士で・・・・・我慢強いと思わないか?」
「基準が偏ってるわ」
「帽子屋だからね」

 喉の奥で笑う男に、アリスはきっと敵わない。それに、十分にアリスを人として尊重していると彼は言う。
 ならこれは、彼が言う所の愛情表現なのだろうか。

(強引な結婚式が・・・・・?)
 アリスの意識が、目の前の押し倒している男からふっと離れる。自分の考えの裡に沈みそうな彼女に気付き、男は腰まで彼女の衣服を引きずり下ろした。
「ちょっと!」
「扇情的な格好で黙りこまないでくれないか?」
 我慢は得意じゃない。
 柔らかに膨らんだ彼女の両胸に手を置き、官能を呼び覚ますように柔らかく指を埋めていく。ぱっと耳まで赤くなる彼女は、潤んだ眼差しをブラッドに注いだ。
「貴方は私を愛していると言いたいの?」
「・・・・・さっきからそう言ってる」
 溜息交じりに告げられて、思わず彼女は「でも」と言葉を継いだ。
「それは私が余所者で逃げ出しそうだからじゃないのかしら?」
「そうなら君の身体の自由を奪うと、先ほど言わなかったか?」
 固く、主張を始める胸の頂きに唇を寄せてキスを降らせる。ぞくりと肌が泡立ち、アリスは思わず喘いだ。背を浮かせた所為で、身体をブラッドに押しつける形になる。
「・・・・・強請ってるのか?」
「馬鹿なこと言わないで」
「だが・・・・・強請ってるだろ?」
 擽るように脇腹を彼の長い指先が掠めていく。身体中の熱が、脚の間にじわりじわりと溜まっていくのを意識しながら、アリスは懸命に首を振った。
「違うわ。貴方はただ・・・・・自分の思い通りに行かないモノに我慢ならないだけよ」
 眩暈のするほどの官能の波を、彼の指先から引きだされて、アリスは必死に声を上げるのを我慢した。このまま屈するのは愚かな事この上ない。だが、ブラッドは頓着せず、舌先で彼女の耳朶をくすぐりながら、低い声で笑った。
「確かにそうかもしれないな」
 その肯定の台詞は、アリスの胸に微かに失望を感じさせた。ちくりと胸が痛む。ほら、やっぱり彼は私を愛してはいないじゃないか。
「だったら・・・・・結婚までする必要は・・・・・」
 ブラッドの手が、彼女の太腿を撫で、掌で温めるように包み込む。
「結婚したいんだよ、アリス。君と」
 それが、からかうような、揶揄するような響きを帯びていれば、アリスはまた腹を立てただろう。だが、その声は低く掠れ、信じられない事に、切羽詰まっていた。アリスの身体を愛撫していた手を止めて、ブラッドはそっと彼女の身体に腕を回すときゅっと抱きしめた。
「しなければならない、でもなければ、しろ、でもない。私が君と、結婚したいんだよ、お嬢さん」
 それは、貴重な私が居なくならない為でしょう?
 喉まで出かかった言葉は、彼の唇で奪われ塞がれた。掠めるように、宥めるように。柔らかく繰り返される口付けは、今までに無いほど優しかった。必要と有れば、彼はいくらだって優しくなれると、身をもって教えられているようだと、アリスは慌てて皮肉めいて考えた。
 でなければ、絆されそうだった。
「私は、そんな君を望まない」
「・・・・・・・・・・え?」
 ぼんやりとかすみがかった視線を、愚かしい男に向ければ、彼はいつもの皮肉めいた、人を馬鹿にし、威圧するような雰囲気をかなぐり捨てて、ただじっとアリスを見詰めていた。
「君は何度でもここから逃げ出そうとすればいい。元の世界を恋しく思えばいい。私は甘んじてその君の考えを受け入れよう。それが、私が好きな君だからだ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「忘れろとは言わない。捨てろとも。だが・・・・・逃げ出そうとするならば、全力で対処させてもらう」
 ありとあらゆる手段を使って。何度でも、何度でも。

 だから君は、変わらなくていい。そのままで在ればいい。

 ふっと口元に漂う笑みに、アリスは度肝を抜かれた。この男は何を言ってるのだろうと、思考がショートする。
 私は鍵を捨てたのだ。
 家に帰る為の唯一の鍵を。
 捨てるように促したのはこの男の筈なのに。

「貴方の所為で、鍵を失くしたわ」
 気づくと、彼女は声を荒げて叫んでいた。にやりと男が笑う。「そうだよ、お嬢さん」
「貴方が・・・・・捨てさせたのよ!」
「まさにその通り」
「貴方の所為なのよ!!!」
「ああそうだよ、愛しいアリス」
 くすくすとブラッドは笑い、抱き寄せた彼女を腕の中に閉じ込めて、からかう様なキスを頬や額、喉や胸元にひっきりなしに落していく。
「なのに貴方はっ」
 長いキスで唇を塞がれる。軽やかな舌が、彼女の熱く、なめらかな口の中を彷徨い、彼女の舌を絡め取る。
「そうだよ、お嬢さん。全ては私が悪い」
 だから、君は何も心配しなくていい。

 碧の瞳が、アリスを映しだす。鍵を捨てた彼女を。

「君には選択肢は一つしかない。私と結婚することだよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・理由が判らないの」
 困惑しきったアリスの声が、意に反して口から洩れる。
「貴方に好かれる理由が・・・・・判らないのよ」
 余所者は誰からも好かれる。
 そんな理由じゃなくて。心臓の鼓動だけが興味をそそるのではなくて。
「君は私に相応しい女だよ・・・・・アリス」
 君は私に媚びない。そして、私を畏れない。
「君を愛してるんだよ・・・・・アリス」

 小瓶の薬は溜まったまま。行方は不明。嵐が私の周りを吹き荒れて、そのままで居ろとならず者は囁く。
 そのままで。
 何も変わらずに。

「私は・・・・・愛してないわ、旦那さま」
 掠れたようなアリスの台詞に、ブラッドは肩を震わせて笑った。




 結局私は、この世界にとどまり、彼と結婚をする。やはり寝かせてはくれず、彼は結婚式前夜に思う存分私を抱いた。
(それで良いのかもしれない・・・・・)
 永遠と続く披露宴に、半ば寝ぼけながらアリスは思う。自分は物事を考えすぎる。起きた事に付いてぐだぐだと考え込んでしまう。
(何か考えなくてはならない・・・・・後ろ暗い事が有った気がするんだけど・・・・・)
 思い出そうとすると、その度にブラッドの手が伸びてきて、アリスの身体に触れるのだ。

 君が居るのはここだと言わんばかりに。

(それでいいのかな・・・・・)
 ふと隣を見れば、ブラッドの宝石の様な碧の瞳が、暗く輝いてアリスを映していた。まぎれも無い賛辞が滲んでいる。
「砕けるのはそう遠くない」
 そっと身を傾けたブラッドが、アリスの耳元で囁く。
「え?」
 いぶかしむ彼女に、彼は怪しく笑った。
「なに・・・・・三人は子供が欲しいなと言っただけだ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 全く。マフィアのボスに似合わない、家族計画だこと。

 じろっと夫となったばかりの男を睨めば、彼はちゅうっと彼女の頬にキスをした。
「砕けてしまえ」
「・・・・・だから、何の事?」
 人目をはばからす、スピーチをしているエリオットなどお構いなしに、ブラッドはアリスに本格的にキスをし始めた。

「君のハートの話だよ」






(2012/09/03)