齧ると甘い束の間






 身体がだるい。
 ぼうっと眼を開けると、隣に寝ている男がその妖しい瞳でアリスを見下ろしていた。彼は、彼女の綺麗な髪に指を絡め、手触りを楽しんでいる。
「・・・・・・・・・・」
 喘ぎ過ぎて声が出にくい。水が欲しい。気だるげな彼に何かを頼めば、また無駄な欲望に巻き込まれる。そう思って一度目を閉じ、身体を起こそうとして「水か?」と囁く低音にくらりとした。
「ええ」
 掠れた声。眉を寄せ、顔をしかめる彼女に、ブラッドは枕元からデカンターを取り上げるとグラスに水を注いで一口飲むと、お約束のようにアリスに唇を合わせた。
 こくん、と喉が動く。
「もっと?」
 甘い声が耳朶をくすぐり、彼女は「自分で飲むわ」と囁き返した。
「詰まらないな」
 過分に笑みを含んだ声で言われても説得力はない。重たい身体を起こし、アリスは彼の注いでくれたグラスを受け取った。
 プライドがどうのこうので、最終的に「啼かせてやる」と散々弄ばれた結果、アリスがやっと風呂に入ってベッドに倒れ込んだのは、彼に連れ戻されてから大分経っていた。
 昼間の明る光りの中で弄ばれて、窓の向こうが夕方になって、夜になった辺りまで覚えている。
 まどろんでは、彼にちょっかいを出されて、抱かれる。夜も更けるにつれて行為は激しさを増し、明るくなった辺りで、眠いと呟くブラッドを必死に振り払ってバスルームに倒れ込んだ。半分寝ながら身体を洗っていると、不機嫌そうな彼が「君が私の傍を離れるのは許さない」と宣言して、結局綺麗に洗ったのに、もう一度洗う羽目に陥った。
 寝かせてくれないと結婚しないと、ごねて、眠りに付いたのは夕方。
 ただし、眠れた気は全然しないし、ブラッドは相変わらずアリスの身体を撫でて放そうとしない。

 紅い光が差し込んでいるから、多分今もまだ夕方だろう。ということはやっぱりたいして寝ていないと思う。
 もしかしたら結構時間帯が変わったかもしれないが、身体は重いから睡眠不足は正しいだろう。そして何よりも水を流し込んだ所為で空腹を思い出した。
「・・・・・・・・・・正気じゃないわ」
 一方的に喰われたわけじゃなく、アリスももう一度ブラッドを自分に降伏させてみたくて仕掛けたりもしたので、ブラッド一人を非難するつもりはない。
 漏れた台詞は、自戒の念も十分に籠っていた。
「帽子屋だからな」
 そんなアリスの台詞に、あっさりと応え、ブラッドは枕元に散らばっていた書類をまとめると端をクリップで留めた。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 この状況で仕事をしていたらしいブラッドに、アリスはますます眉間に皺を寄せる。帽子屋の彼の方が正気じゃない筈なのに、まるで平然と仕事をしてました、と態度で示されては、付き合わされたアリスの方が正気じゃなく見えてくる。
(いいえ、この状況で仕事をしてるブラッドこそ正気じゃないわ)
「さて、アリス。何か食べないと、次の夜には何も出来なくなってしまう」
 身体を起こし、ふかふかの枕にもたれかかって、そっぽを向いていたアリスは、その言葉に血の気が引いた。
「まだするつもり!?」
 思わず声を荒げれば、いつの間にかベッドを降りてワゴンを押してきたブラッドがにやりと嫌な哂い方をする。
「次の夜には、帽子屋ファミリー贔屓の店が、ウエディングドレスを持って来る。明日の式の為に選ばないといけないからな」
 トレーにポークソテー、生ハムのサラダ、スープにライ麦パンなどを載せて、ブラッドはベッドで頬を赤く染め、眉を吊り上げる女性に差し出した。
「君は何を期待したのかな?」
「期待なんかしてないわよ!」
 というか、これ以上は無理。本当に無理。
「そうだなぁ・・・・・ウエディングドレスで、というのもそそられるな」
「・・・・・・・・・・・・・・・やっぱり正気じゃないわね」
「帽子屋だからな」
 差し出されたトレーはしかし、アリスが手を伸ばす手前で止まる。フォークを掴んだ男が、取り分けられたソテーをアリスの口元に差し出した。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 冷やかなアリスの視線をモノともせずに、ブラッドは口を開けるように促して、嫌がる素振りの彼女を抱き寄せる。
 脚の間に抱え込み、楽しそうに食事をさせるブラッドに、アリスは溜息を洩らした。

 自分の身に起こってる甘すぎるこの時間は一体何なのだろう。
(こういうの・・・・・本当は馬鹿にしてたはずなんだけど・・・・・)
「美味しいかな?花嫁さん?」
 くすくす笑いながら、背後で囁く男に、アリスは観念したように身を凭せ掛けた。
「今度はそっちのサラダが欲しい」
「仰せのままに」

 こんな所を他のヒトに見られたら、きっと死ねる。
 でもたぶんきっとぜったい。

(そんなことにはならない・・・・・のよね?)

 アリスの首筋に頬を寄せて、楽しそうに食事をさせるブラッドの様子に、アリスは小さく笑みを浮かべた。

 独占欲の塊の様な男はきっと、人前でこんな事をしようとはしない筈・・・・・多分。

「ブラッド・・・・・」
「ん?」
 差し出されたフォークの先にある、ミニトマトを指で取り上げ、彼女はブラッドの口元に押し当てた。
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
 小さく笑い、アリスの指ごと含んだ男が、爪の先を舐め、「挑発してるのか?」と彼女の耳に唇を押しあてた。
「これくらいで挑発されるの?」
 ブラッド=デュプレが?

 首を捻るアリスの唇に吸いつき、男は喉の奥で笑った。

「私をおかしくするのは君だけだ、アリス」
 まだ残ってるし、ワゴンにはティーポットもある。紅茶が冷めるわ、と訴えるより先に、トレーを押しやった男が彼女を枕に押しつけた。
「紅茶よりも君だ」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 紅く濡れた唇は再び塞がれて、アリスは身体が重い筈なのに、次の夜にはドレスを選ばなくてはならないのに、と遠い所で考えながら目を閉じた。





 奇跡的に痕の残っていない身体を包むのは、ブラッド=デュプレの妻としては随分と可愛らしいデザインのドレスだった。
 ただし、大きく開いた胸元と腰の細さを強調するように絞られたウエストラインがなまめかしい。
 可憐さと大胆さを合わせたようなそれに袖を通し、鏡の前で色々調整されながら、アリスは溜息を吐いた。

 ブラッドの事は好きだ。
 この期に及んで認めないつもりはない。
 ただし、物凄い勢いで強引にここまで持ってこられた所為で、色々不安が有るだけだ。

 結婚とは愛し合ってる人がするものだと、そう思う。
 それをブラッドに訴えれば、まず間違いなく、明日の朝まで身体を繋げる事を強要されるに決まっている。
(そういうんじゃなくて・・・・・)
 ヴェールを被せられて、ややうつむいたアリスは、花の位置などを直すメイドさんにばれない様に溜息を吐いた。

 ふと、行為の最中、一度だけアリスが勝った瞬間を思い出し、彼女は赤くなった。
 誰も見た事がないと思われる、ブラッドの追い詰められた表情。目蓋を閉じれば、あの瞬間と同時に思い出す。
 ぞくっと背筋が震えて、彼女はふるふると頭を振った。

「どうかしましたか〜?」
「え?」
 はっと我に返ると、にこにこ笑ったメイドさんがアリスを見上げていた。
「な、なんでもないの」
 慌てて答えれば、彼女達は顔を見合わせて、わらわらとアリスの周りに集まってきた。
「それにしても〜お嬢様がボスと結婚してくださって〜本当にうれしいです〜」
「これで〜帽子屋ファミリーも安泰です〜」
「その辺の女だったら〜私たちが消しちゃってる所ですもんね〜」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 物騒な単語だが、聞かなかった事にする。彼女達は素直にアリスを祝福してくれているようだ。

「あの・・・・・」
「はい〜?」
 裾の位置などを直し始め、完成に近づいてくる。再び仕事を始める彼女達に、アリスは思い切って尋ねてみた。
「ブラッドが今まで結婚を考えた事って無かったの?」
 アリスの小さな囁きに、メイドさんたちは揃って顔を見合わせて「まあ一応〜」「ビジネス的な意味合いで〜話が出た事はありましたね〜」と口々に答えた。
「・・・・・ビジネス?」
 なんとまあ・・・・・彼に似合いそうな単語だ。
「それって、政略結婚とかそういう?」
「ボスの場合〜、欲しいものを手に入れる為の契約手段と〜考えている節があるかもしれないですね〜」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 のんびりと言われた台詞に、アリスは自分の表情が強張るのを感じた。

 欲しいものを手に入れる為の、契約手段。

「・・・・・そう」
 ブラッドは確かに、アリスの事を愛していると言ったし、責任を取るとも言った。
 けれど、根底にあるのは、ブラッドにとってアリスは逃がしたくない存在で、だから結婚するという結論に辿りついたのではないのだろうか。
(私をこの世界にしばりつけておく為だけに結婚しようと言うの・・・・・)

「さあ〜できました〜」
「凄くお似合いです〜」
 鏡の前で俯いていたアリスは、ゆっくりと顔を上げた。そこには誇らしげに真っ白に輝くドレスに身を包んだ、ちっぽけな少女が一人、青ざめた顔色でこちらを見詰めているのにぶつかった。

 もしも、この世界から永久に帰れない方法が有ったなら。
 そうしたら、彼はアリスと結婚しようなんて考えただろうか。

「お嬢さま〜?」
「・・・・・なんでもないわ」

 不意に冷たいものを背中に感じ、小さく身を震わせ、アリスはほんの少し目を伏せた。




(2011/07/04)