根柢の欲求





「ようこそ、我が屋敷へ」
 口元に笑みを漂わせた男は、冷たい眼差しのまま言い切った。おかしな帽子におかしな衣装。「イカレ帽子屋」の異名を持つのに相応しいおどけた仕草。
 なのに、放たれる威圧感は、アリスの足を震わせ、二度と引き返せない深みに堕ちていくような絶望感を植え付ける。
 張りついているだけの笑み。
 決して張り上げているわけでもない声。
 なのに、胃が竦むほど、怖い。
 こみ上げる胃酸に胸が悪くなるのを感じながら、アリスは唇を噛んで男を見上げた。

(怒ってる怒ってる・・・・・)

 彼の態度を言葉にして表記しても、どこにも「怒っている」要素は無い。
 ただ一つ、彼の凍りついた碧の眼差し以外は。

「あの・・・・・ブラッド・・・・・」
 アリスは背を見せて逃げ出したかった。出来る事なら全速力で。今まで散々滞在してきた屋敷を前に、念を押すように「ようこそ」なんて告げる彼から逃げ出したい。
 めちゃくちゃに走れば、もしかしたら「あの場所」まで戻れるかもしれない。
 だが。
 一瞬だけ物騒な事を考えただけなのに。
 アリスの翡翠の瞳が陰るのを、機嫌が悪いとより一層勘の鋭くなる男が見逃す筈がなかった。
「さあ、取り敢えず私の部屋まで来てもらおうか?お嬢さん」
 屋敷に近づくにつれて、歩みののろくなっていたアリスは、彼の屋敷の敷地をまたいだ瞬間からほとんど進んで無いのではないか、という速度で歩いていた。
 だから、二人の間にはそれなりに距離が有った筈なのに、一瞬だけアリスが視線を彷徨わせた間に、その距離はゼロに等しくなっていた。
「え?」
 ぐいっと腰を抱き寄せられて、彼がアリスの瞳を覗き込んでくる。
 広いシルクハットのつばに隠れていた彼の瞳を、間近に見上げる形になり、アリスはぞっと血の気が引くのを覚えた。
 彼は、長めの前髪の下から、酷く鋭く尖った視線をアリスに注いでいる。
 深い碧の瞳の筈が、赤く炯々と燃えているように見える。
 知らず、彼の胸元に添えたアリスの手が震えた。それでも、動揺を悟られたくなくて、アリスは無理に笑みを浮かべた。
「そんな風にしなくても、ちゃんと歩けるわよ?」
「おや?そうかな?」
 今にも私から逃げ出したいと言う雰囲気に見えるのはどうしてかな?

 見透かされ、アリスは白くなるほどきつく手を握りしめた。
「まあ、実際君は前科がある」
 前科者に言われたくない、とアリスは一瞬言いかえしそうになるが、すんでの所で飲み込んだ。

 前科者、と言う事は詰まり一度捕まった過去が有ると言う事だ。そうなると彼は前科なんか持ち合わせちゃいに決まっている。
 何せ、捕まったことなど一度も無いのだから。

 悪名高いマフィアのボス。なのに、彼を罪に問えるものは居ない。

「ということは、君の言は信用するに足りないと言う事だ」
 低く言い捨て、彼はひょいっと彼女を抱きあげた。俵を担ぐようにして持ち上げられて、アリスは悲鳴を上げた。
「ちょっと・・・・・降ろしてよ!?」
「別の抱きあげ方は、別の機会に取っておいてあげよう」
 私は優しいからな。

 人を荷物みたいに担ぎあげる男が、優しいわけがない。
 じたばたともがく。
 恥ずかしいったらありゃしない。

 だが、そのまま連れ込まれた屋敷の、馴染みのメイドや使用人達は、何故か温かな拍手を送ったり、歓喜の声を上げるばかりで、アリスの味方は一人も居なかった。

「何する気!?」
「決まってる」

 器用に自室の扉を開けて、アリスをベッドに落した男は、彼女が起き上がって身構えるより先に、彼女の両手首を抑えて自重を掛けた。
 柔らかな敷布に彼女の身体が沈み、枕にふわりと金糸に近い栗色の髪が広がった。

 甘く、アリスの香りが立ち、それと同時に男からも薔薇の香りが立ち上った。

「ブラッド!」
 首筋に顔を埋めてくる男に、アリスは必死に抵抗した。だが、ばたつく足は彼の長い足に絡め取られて押さえ込まれ、乱暴に首筋に歯を立てられた所為で、身体から力が抜けた。
 ごくん、と喉を鳴らすアリスの肌を、ゆっくりと唇でなぞりながら、男は徐々に熱っぽくなるアリスの瞳を見上げた。
「なんだ?やめて欲しいのか?」

 乱された、いささか子供っぽいエプロンドレスの襟から顔を上げ、ブラッドはゆっくりとアリスの顔を覗き込む。
 ついばむ様に、下唇にキスを落とされて、アリスの背中が震える。
 警鐘は確かに鳴り響いているのに、彼女にはそれが、ドア一枚隔てた向こうで鳴り響いているように聞こえた。
 自分の身を守りたいのなら、例え一キロ先で鳴り響く警鐘でも、聞き逃してはいけない。
 それなのに、アリスの身体は動いてくれない。
 シーツに縫いとめられているアリスの両手からは力が抜け、彼女の唇は、浅い吐息を繰り返していた。

「・・・・・そうは見えないんだが?」
 ふっと、あざけるように嗤われて、アリスは奥歯を噛みしめた。かっと頬に血が上る。
「やめて欲しいわ」
 力の抜けていた手首に、どうにかこうにか反抗の意志を宿らせると、彼女の翡翠に魅入っていたブラッドが、目を細めた。
 射ぬかれそうな強さのそれに、腹の奥が震える。
「ああ・・・・・それはすまない。だが、申し訳ないが私は君を手放すつもりも、見逃すつもりもない」
 申し訳ない、などと言っているが、彼の瞳にはどこにも殊勝な色は見えなかった。

 命令者の、絶対的な色味が滲んでいる。
 彼が放った言葉は、絶対に実行される・・・・・そんな強さが滲んでいる。

「嫌よ」
 それでもなお、良い様にされるのが嫌で抵抗すれば、彼女の手首をつかむ手に力が籠った。

 思ったよりも熱い掌の感触に、火傷しそうな気になる。

「拒否は認めない」
「・・・・・・・・・・嫌」
「乱暴にされたいのか?」

 伏せった彼に、耳元で囁かれて、ぞっとする。彼は普段、それなりに優しい。多分、気を使ってくれている。

「泣き喚くのが趣味だとは知らなかったな」
「や」
 恐怖から引きつった声で、更に拒絶を示そうとして、アリスは強引に唇を塞がれた。
 舌先が、アリスの口内を犯し、応えない舌を引きずり出す。手が、服の上から身体を弄り、彼女は堪らず身をよじった。

 乱暴で性急。
 脱がされる、と言うよりは引き剥がされたエプロンが床に落ち、止まらない口付けに涙が滲む。苦しさから、それでももがくように曇った瞳を見開けば、彼の手が、アリスのドレスの襟を引き裂いた。

「んっ」
 身がすくむ。
 こんなのは嫌だ。
 こんな・・・・・乱暴なのは・・・・・

「んぅうっ・・・・・んっーっ!!!」
 抗議の声を必死に張り上げて、アリスは懸命に彼の背中を叩く。だが、煩そうに振り払われて、それでおしまい。
 彼女の抵抗はほぼ意味がなく、程なく肩が剥き出しになり、下着に押し上げられた胸元を冷たい指が張っていく。
「やあ」
 唇が離れた一瞬に、悲鳴のように声を上げれば、ブラッドは引き下ろされた下着から零れた、白い塊をやや乱暴に掴んだ。
「痛っ」
「君があんまり心にもない事を言うから、お仕置きだ」
「なんで私がお仕置きされなくちゃならないのよ!」
 ぎゅっと掴まれて、アリスのささやかな膨らみは形を歪めている。愛撫するようなそれではなく、ただ掴まれている為に、痛い。
 涙を滲ませて叫べば、ブラッドは「当然だろう」と冷ややかに言い切った。
「帰るな、行くな、ここに残れ・・・・・この私が、君を一室に閉じ込めもせず、縛り付けもせず、自由にし、言葉だけで訴えたと言うのに君はあっさり裏切った」
 そのお仕置きだよ、お嬢さん。

 ぎり、と胸元に爪を立てられて、彼女は痛みから顔を逸らした。必死に唇を噛みしめる。
「だって・・・・・私は・・・・・」
「言い訳は聞きたくない」
 胸の頂きを乱暴につままれて、ひあっとアリスが喉をのけぞらせて悲鳴を上げた。
「やだ・・・・・いやっ!」
 痛いのっ!

 首を振って訴える。シーツを掴む指先に力が籠り、引きつれたように震える。暫く、おもちゃのようにアリスの胸をいたぶっていたいたブラッドは、「お願い」と懇願するような響きの声に、ようやく手を止めた。

「おや・・・・・どんなお願いかな?」
 白い肌には、赤い指の痕がくっきりと残っている。涙にぬれた眼差しでこちらを見上げるアリスは、蒼白で震えていた。
 ゆっくりと笑みを浮かべて、ブラッドは彼女の頬にキスを落す。
「私に、何をお願いする気なのかな?アリス」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 かたかたと震える身体を離して欲しい。
 ここから出て行って欲しい。
 一人にして欲しい。
 いいえ、元の世界に帰して欲しい。

 彼に訴えたい要求は多々あった。だが、そのどれもを、彼女は選ばなかった。

 今現在、アリスの胸に渦巻いているのは、目の前の男に玩具のように扱われるのはごめんだと言う事だけだった。
 それだけは嫌だ。
 それだけは。

 そんな風に扱われたら、きっとアリスは死にそうになるだろう。

「・・・・・・・・・・て」
 震える唇が紡ぎ出した要求に、アリスは耳を塞ぎたかった。だが、いまはもう、これしか言えない。
「何だ?」
 愛おしそうに頬を撫でる指先に、震える。それがまた、乱暴な動きをし始めたら、アリスは生きていけない。
「アリス?」
 ちゅっと唇にキスされて、それが思いのほか優しかったから、アリスは握りしめていたシーツを離して、彼の頬に両手を添えた。
「優しくして」

 掠れて甘い彼女の台詞に、ブラッドはほんの少し目を見張ると、それから満足したように笑みを浮かべた。

「ああ、いいだろう」





(2011/06/24)