裏切りモノが欲しいのは
ニセモノのアリス





「エリオット」
 一瞬で青ざめて、言葉を失うアリスを余所に、ブラッドは彼女の後ろに控えているエリオットに視線を投げた。
「そこの女がアプリコットか?」
 顎で指示されて、アリスの身体が震えた。表情の無い彼の視線が、ちらりとアリスに落ちる。
 絶対零度のそれに、全身から力が抜けるのを、アリスは感じた。
「あー・・・・・そのすまねぇ、ブラッド・・・・・えっとだな・・・・・」
 口ごもるエリオットを余所に、ブラッドが一歩アリスに近づいた。手袋をはめた手が、顎に触れる。普段からは考えられないほど強く掴まれて、アリスは歪んだ視線でベルガモットを睨みあげた。
「君はアプリコットじゃない・・・・・そうだろう?」
 愉快そうに笑う男に、アリスの視界が曇った。

 知ってるくせに。

「そうよ、その子はアプリコットじゃない」
 答えたのは、もう一人のアリス・・・・・黒いドレスのアリスだ。
「アリスの妹だって名乗ってたんだが、違うらしいんだ」
 エリオットが勢い込んでそう言う。アリスの顎を掴んだまま、ブラッドは「へえ」と短く返事をした。
「・・・・・・・・・・君はアプリコットでもなければ、勇者アリスの妹君でもない」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「では君は誰なんだ?そして、何の目的があって、この屋敷に忍び込んだのかな?」
 間近で見下ろすブラッドの瞳は、どこまでも冷たく、アリスは心の奥から震えて、力が抜けるのを感じた。

 ずるっと身体が落ちる。足が立たない。
 ぱしん、と音を立てて顎を払われて、アリスは惨めに絨毯に膝を折った。
 唇をかむ。
 血が滲むほどきつく。
 両の手の指に力を込めて、絨毯に爪を立てる。指先が、真っ白になるほどきつく。

「言う気がないのかな?」
 私も、舐められたものだな。

 ふん、と鼻を鳴らし、男は大儀そうに持っていた杖の先を、俯き跪くアリスの頬に当てた。
 ぱりし、ぱしりと当たるそれが信じられない。

 ぼろっと涙が零れ、アリスは情けなくて情けなくて、顔が上げられなかった。

「最初から・・・・・」
 それでもアリスは、喉の奥から掠れた声を絞り出した。
「最初から・・・・・騙してたの?」

 地を這う様な低い声に、ブラッドは眉を上げる。

「何がだ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 杖の先が顎に触れて、持ち上げるように促される。必死に拒めば、その先端は、今度はアリスの首の後ろに添えられた。

 ぐっと力を込められれば、アリスは床に倒れ込むしかなくて。
 絨毯に頬を押しつければ、涙しか溢れてこない。

 歪んで滲んだ世界で、アリスは声を殺して泣く。
 うめき声一つ上げず、涙だけが絨毯に吸い込まれていく。

「騙していたのは君の方だろう?」
 倒れ伏すアリスを見下ろし、ブラッドが静かに切り出した。

「アリス」
「はい」

 首をめぐらせ、ブラッドは甘やかにアリスの名を呼ぶ。アリスではない、もう一人のアリスの事を。

(ベルガモットなんていないんだ・・・・・)
 私はずっとずっと騙されていた。

 この男に。

「君は、世界で唯一の紅茶が欲しいのだろう?」
 しゃがみこみ、ブラッドは杖をどけると、アリスの襟首を掴んで引きあげる。噛みしめて、口の端から血が零れるアリスを眺め、アリスを振り仰いだ。
「それはこの女が持っている」
「!?」
「え?」

 驚くアリス。それと同じようにドレスのアリスも目を見開いた。

 何だって?

 苦しそうに顔をゆがめながら、それでも自分を見上げるアリスに視線を落として、ブラッドはにたりと笑った。

「私はこの世界に一つしかない紅茶を、アプリコット=アーガイルに預けていた」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「だが、彼女は殺されてしまった。この・・・・・名無しのお嬢さんにね」
「!?」

 驚くエリオットとアリスを余所に、ブラッドは震えだすアリスに目を細めた。薄く笑みが漂う唇から、アリスは目を離せない。

 何を言っているのだ?
 何を言いだすのだ?

 真っ青な彼女を堪能して、ブラッドは更に先を続けた。

「名無しのお嬢さんは、私のアプリコットから、貴重な紅茶を奪い取り、この屋敷に潜入してきた・・・・・多分、その紅茶をネタに私にたかるつもりだったのだろう」
 違うかな?

 ブラッドの手が、アリスの首を這う。
 ぞっと肌が粟立ち、アリスは目に見えて震えだした。

「でなければ・・・・・こんな場所に潜入してくる意味が判らない」
 君が持っているのだろう?世界に一つしかない紅茶を。
「わ・・・・・たし・・・・・」
「あなた、最低ね」

 アリスの低い声がして、アリスは視界が真っ暗になるのを感じた。

 突き飛ばされ、再び床に倒れ込む。だがもう、起き上がる気力も無い。涙だけが零れて、震えが止まらない。

 彼が優しくしてくれたのは、そう言う事か、とアリスは遠い所で思い当たった。

 自分がアプリコットと名乗った時、彼はそう考えたのだろう。

 だから。

 日に日に懐くアリスを手玉にとって遊び、最終的に紅茶が手に入ればそれでいいと思っていたのだろう。

 馬鹿なのはアリスだ。
 そんなベルガモットを純粋に信じて。彼がこの組織のボスだなんて考えもせずに色々話して。
 酔って、狂って、甘えて。

 ああ、こんな馬鹿なアリスはニセモノでいい。
 あちらのアリスが、この男に・・・・・ベルガモットと名乗っていた、ブラッド=デュプレに愛されている。

「さ、紅茶を出して」
 持ってなんかない。
 そう言いたいが、アリスはしゃがみこみ、自分を勝ち誇って見下ろすアリスに、歯噛した。

 確かに彼女はアリスの理想で、アリスが間違っても勝てる相手なんかじゃない。

「・・・・・・・・・・・・・・・持ってないわ」
 でも、ただ負けるのも腹立たしい。


 ふつふつとわき上がる、真っ赤な感情に、アリスは目を伏せた。目蓋の裏が熱い。身体も、なにもかも、全部。
 余りにも情けなさ過ぎると、人は血が沸騰するらしい。
 冷静で根暗で面白みの無いアリスも、例外ではなかった。

「・・・・・出せばいいのよ、大人しく」
「持ってないの・・・・・知ってるでしょう?」

 きっと眦に力を込めて睨みあげる。その翡翠に、アリスが「生意気な子」と鼻に皺を寄せた。

「ねえ、ブラッド。あの女、持ってないって言うわ」
 甘えたような声で告げるアリスを、アリスは力一杯睨みつけた。

「持ってないわ、言い掛かりよ!!」
 悲鳴のような彼女の声。だが、ブラッドはそれにただ目を細めただけだ。
「そこまでいうのなら、その衣装を剥ぎ取って調べればいい」
 どうせすぐに見つかるよ、アリス。

 腕に甘えてくるアリスの頬を優しく撫でて、ブラッドは柔らかな瞳でアリスを見下ろす。ぱっと朱の走るアリスの頬。

 ナ ン ダ ア レ ハ 


 控えていたメイドが、跪いたままのアリスを連れて行こうとして、アリスはその手を振りほどいた。

 何も考えられないくらい、目の前が真っ赤で、心の中で嵐が吹き荒れている。全部が信じられない。なにもかも、なにもかも、なにもかも。

「持ってないって言ってるのよ!自分で調べればいいわ!!!」
 絶叫にも似た声で叫び、アリスは手を掛けるメイド達を付き飛ばして、アリスの腰を抱くブラッドの前に立った。
 その碧がアリスの翡翠を捕える前に、彼女は自分の首筋のリボンに手を掛けた。

「ちょっと!」
 アリスが驚くのも無視して、彼女は着ていたメイドの衣装を足元に落とした。

「っ!?」
 真っ赤になるエリオットにも構っていられない。

「全員で観ればいいわ!なんなら、そこにいるお兄さん方全員を相手にすればいいかしら!?体中、全部!調べればいいじゃない!!!!」

 叫び、アリスは付けていた下着も全て外してしまう。綺麗な真っ白な素肌から、黒服もメイドも大急ぎで視線を逸らす中、エリオットだけが大いに慌てて自分の着ていたコートを彼女に掛けた。

「あ、ああ、あんた!何考えてんだよ、おい!!!!」
「持ってるって断言するのなら、調べて頂戴!」
 それを振り払おうともがく彼女の肩を、エリオットは必死に押さえる。彼女の正面で、アリスの肌を見詰めていたブラッドが「アリス」と低い声で自分にしがみ付く女を呼んだ。
「そこの服を調べなさい」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 感情のこもっていない台詞に促され、いくらか青ざめたアリスがそっとアリスのメイド服を拾い上げた。

 固唾を飲んで、その光景を眺める。
 私は持ってない。
 そんなもの・・・・・持ってなんかいないわ。

 鉄の味がするほど、奥歯を噛みしめて、必死に見詰めていると。

「あ」
 スカートのポケットから、ゆっくりとアリスが何かを取り出した。
 それは。

「ティーバッグ?」
 ひゅっと息を吸い込むアリスの前で、アリスが手にした紅茶をしげしげと眺めた。
「これ・・・・・アプリコットのティーバッグよ」
 ブラッドを見遣るアリスの手から、それをそっと持ち上げて、ブラッドはにんまりと笑った。

「そう。これこそが世界に一つしかない、紅茶、だよ?」
「どうしてよ」
 それに、アリスが眉間にしわを寄せた。謳う様にブラッドが続ける。
「確かに、茶葉の質やなんかはどう考えても良いものではないだろう。きちんとポットで淹れない、簡易のものに仕上がっているのも納得できない。だがね、お嬢さん。これはこの世界に一つしかない紅茶なんだよ?」
 くすりと笑って、アリスの金色の髪に指を絡める。

 素肌を曝したままのアリスは、その様子を呆然と見詰めていた。
 なぜ、あれが?
 あれは、だって・・・・・。

「どうしてよ?」
 不服そうに唇を尖らせるアリスに、ブラッドは目を細めた。

「当然だ。その紅茶は君の世界の物なのだろう?」

 はっと二人のアリスは息を呑んだ。

 あのティーバッグ。
 あれは、ロリーナがアリスに差し出した物だ。

 ティーバッグにも、美味しさが有るのだと、日だまりのような笑顔で渡された。

「君の世界のものが、この世界に有るわけがない」
 だからそれは、この世界で唯一の紅茶、なんだよ、お嬢さん。


 再びそれを手に持たされて、アリスは息を呑むと、次第次第に顔を輝かせていく。
 対照的に、衣服を脱ぎ棄てたアリスは、その場にへたりこんだ。

 勝負は。
 勝負の行方は。

「というわけで、お嬢さん。君の勝ちだ」
 ぱちぱちぱち。

 アプリコットのティーバッグ。
 それを手にしていたアリスが、勝ち誇ったようにアリスを見遣った。

「これで・・・・・これで私の勝ちだわ!私がオリジナルになるの!!!!」
 私がホンモノのアリスだわ!!!!

 高らかに叫んだ瞬間、アリスの足元がきらきらと光り輝き、金色の粉が舞いあがる。環状になったそれが、彼女のつま先から頭のてっぺんに向けて、くるくると回りながら登って行く。

 振りまかれる金色の光。

 へたりこんだまま、それを眺めていたアリスは、自分の身体から力が抜けていくのを感じた。
 大事な何かが、断ち切られていく感触。自分を縛っていた鎖が、軽くなって抜けおちていく、そんな感触。

(あ・・・・・)

 金色の光に頭から、アリスが包まれた瞬間、アリスは必要以上に身体が軽くなるのを感じた。
 そのままくたり、と絨毯の上に倒れ込む。

「・・・・・・・・・・・・・・・何か、変わったかしら?」
 その光が霧散し、透明な光を零しながら再び姿を現したアリスは、特に変わった所はなく見えた。
「ま、ここでは理想も現実もごっちゃに存在できる世界だから、にわかには判らない、か」
 うん、と一人頷き、アリスは両手を伸べてブラッドの首筋に抱きついた。

「これで・・・・・私はホンモノになったわ!」
「おめでとう」
 にっこりと笑って、ブラッドがその金髪を撫でる。
「君がオリジナルになってくれて、私も心から嬉しいよ」
 うふふ、と楽しそうに笑うアリスが、ブラッドの唇を強請るように、踵を上げて顎を上げ、目を閉じる。
 頬を染めて見上げる彼女に、ブラッドは笑みを深めた。
 くっくっく、と喉の奥で笑っていると、しびれを切らしたアリスが目を開けた。

「ちょっと・・・・・ブラッド!」
「ああ、すまないね、お嬢さん」
 ただ、本当にうれしくて・・・・・

 にやにや笑うブラッドは、本当にうれしそうで、アリスは更に頬を赤くした。

「ブラッド・・・・・」
「これで・・・・・これでようやく、欲しいものが手に入る」
「ええ、だから」


 その瞬間、荘厳なファンファーレが鳴り響き、天井を無視して光が降り注いできた。

「!?」
 ぎょっとするアリスは、「よいしょ」という掛け声とともに天井から飛び降りてきたウサギ耳の男に目が点になった。

「ああ、僕の愛しいアリス!アリス!!よくこのゲームをクリア―しましたね!!!」
「・・・・・・・・・・・・・・・え?」
 固まる彼女の手首を掴み、ウサギ耳の眼鏡を掛けた、ちょっとインテリ風のお兄さんがぴょいぴょいと飛び跳ねる。
「あなたは見事!この男から貴重な紅茶を奪還しました!ミッションコンプリートですよ!!ああ、僕のアリス!アリスならやってくれると思ってました!!!」
「え?ち、ちょっと・・・・・」
「さ、これからが良い所ですよ!!!エンディングです!!!」
「え、エンディング!?」
 ぎょっとするアリスの手を掴み、ウサギ耳の男は冷たい眼差しでブラッドを見遣った。
「これでアリスのミッションは終わりです。彼女はこれから真相エンディングを迎えるのですが、邪魔しないでくださいよ、ブラッド=デュプレ」
 冷たい眼差しに、ブラッドは「ああ、そうなのか?」と芝居掛った口調で応じた。
「とても楽しい、暇つぶしにはもってこいのお嬢さんだったが・・・・・そうか。クリア―してしまったのなら、止める事は出来ないなぁ」
 ああ、残念だ。
「ブラッド!?」

 突然の事で付いて行けなかったアリスがここでようやく我に返った。見る見るうちに、その輝いていた笑顔が萎れていく。

「な・・・・・何を言い出すの!?私は、ここで」
「さ、帰りますよ、アリス!あなたのお姉さんと妹さんとお父さんと・・・・・えーとそれから、例の家庭教師?なんだかしらないですが、あなたがしなくてはならない事とやらが待ってます!希望に満ちた現実が、あなたを待っているんですよ!!」
「ちょ・・・・・い、要らない!要らないわそんなの!!!」
「何言ってるんですか、アリス。あなたがゲーム中、ずーっとずーっと望んでいた事なんじゃないんですか?・・・・・あ、でもあれは違うゲームのアリスですかね?ハートの小瓶が責任感で一杯になるまでの・・・・・まあ、どちらでも良いですv僕のアリスvvあなたはこのゲームをクリアしたのですから」
 さ、帰りましょう!RPGの基本は行きて帰ることですよ!

「ま、待って!!ブラッド・・・・・!!ブラッド!!!!」

 悲鳴を上げるアリスはしかし、白ウサギに手首を掴まれて、徐々にその存在が薄れていく。
 ああ、残念だ、とブラッドは大げさに肩を上げて見せた。

「だが、所詮は勇者と魔王。相容れないと言う事か。ホワイト卿、是非アリスを幸せにしてやってくれ」
「あなたに言われなくてもそうするつもりです」
 彼女が一番に愛しているのが、僕ですからね。

「嫌よ!!帰らない・・・・・私はっ!!!!」
 手を伸ばすアリスに、ブラッドは「一度だけだと言わなかったかな?」とその唇を艶やかに上げて笑って見せた。

「君は私の望みをかなえてくれた・・・・・とても感謝しているよ、アリス=リデル」
 現実の世界でも、上手に生きていくんだよ?

 そんなのいやあああああああ!!!!

 光る天井に吸い込まれ、アリスと白ウサギは徐々に消えていく。述べられた手を綺麗に無視して、ブラッドは優雅に会釈をして見せた。
 紳士的なのに、内容はマフィアのようにしたたかな、そんな会釈。

「君の未来に幸多からん事を」


 ぱしん、と軽い音がして光がはじけ、金色の粉のような光が散った後に残ったのは、この屋敷の主と、2と黒服と、メイドと・・・・・そして、オリジナルを奪われたアリスだけだった。







20101108