不必要な時間の牢獄
身体が重い。特に下肢が。
一人、ホテルのベッドの上で目覚めたアリスは、辺りを見渡し、今ままで自分を翻弄していた男を探してみるが、早々に諦めた。
彼は自分で「酷い男」だと言っていた。
確かにその通りで、寄れてぐちゃぐちゃのシーツの上に座りこむアリスの有様は酷いものだった。
溜息を付いて顔に掛った髪を払う。身体の奥が気持ち悪い。
人がいないのだから別に構わないだろう、と一人何も身にまとわずにベッドから降りる。膝が笑っている気がする。太腿の裏が痛い。変な所が筋肉痛だ。
このまま座り込んでしまいそうな衝動を堪えて、アリスはバスルームに辿りつくと、冷たいタイルに座りこんで頭からお湯を被った。
どれくらいそうしていたのだろうか。
痛みと言うより、違和感を感じる下肢を恐る恐る洗い、身体にまとわりつく不快な甘い匂いを全部石鹸にすり替え、アリスは温かな湯気とともにバスルームを出る。
時間帯が変わったらしく、薄いカーテンの引かれた窓から、先ほどよりもずっとオレンジの色味が強い光が降り注いでいる。
身体は相変わらず重い。バスローブをまとったまま、濡れた髪もそのままに、再びベッドに倒れ込む。
情事の名残が残るそこで、再びうつらうつらしていると、不意に甘い香りがしてアリスは重たい目蓋を引きあげた。
「・・・・・・・・・・ブラッド」
「随分と、だるそうだな?」
紅茶とマフィンを買って来てやったぞ?
にやにや笑う男を視界の端に収めたまま、アリスは呻いた。
本当に嫌な男だ。
「頂くわ」
両手を付いて身体を起こす。何もしたくない。久々に声を出したら枯れていて、それもアリスの気だるさに拍車を掛けた。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
ふわりと、カップの蓋を開けると、香る良い匂い。温かな包みを解いて、胡桃の入ったマフィンをゆっくりと食べていると、ベッドの縁に座り、アリスの髪を拭って梳いていた男が「さて、お嬢さん」と楽しそうに切り出した。
「私は君の望みをことごとく叶えてやった。抱いて欲しいと言うから、一度だけと条件をつけて抱いてやったし?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
愛のある行為、とはとても言えなかったが、アリスはそれでも頬を染めて、こくりと頷いた。
覚えている事が有る。
必死に縋りつき、彼の背中に爪を立てた。うっすらと開いた瞳に映ったブラッドが、溶けそうなくらい柔らかな眼差しで自分を見下ろしていた。ぱたん、と落ちてきた彼からの汗すらも愛しかった瞬間。
消えて無くなっても良いと、アリスは思ったのだ。
耳まで赤くなるアリスを、眼を細めて眺め、ブラッドは頬に指を伸ばす。
「今度は私の望みが叶わなくては、不公平だと思わないか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・何が望みなの?」
ようやく、アリスのエメラルドの瞳が、ブラッドの瞳に重なる。碧の瞳の奥は暗く、深い。濃いグリーンは黒にしか見えない。
にこり、とブラッドが笑った。
「私の望みはただ一つだよ、お嬢さん」
君の望みを叶えることだ。
妖しく笑って言われ、アリスは眼を瞬いた。
何を言っているのだ?
「私の・・・・・望み?」
「そうだ」
顔に掛っている、緩くウエーブした金髪を耳に掛け、現れた小さな貝にも似た耳に唇を寄せる。
甘い吐息が吹き込まれる。
「君の一番の望みは・・・・・何だ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「ドレスも宝飾品も、調度品も・・・・・私ですら叶わない、君のたった一つの、一番の望みだ」
ぞくん、と身体が震え、アリスはゆっくりと身体を離し、己を覗き込むマフィアのボスをひたと見詰めた。
アリスの望み。
それは、ただ一つしかない。
「それを叶えてやろう」
「・・・・・それが貴方の望みなの?」
思わず眉間にしわを寄せて、探るように尋ねるアリスに、ブラッドは見惚れるほど優しく笑った。
ちかり、と彼の瞳に鋭い光が過るが、身体の芯が溶け、心臓が急に煩く鳴り響いているアリスの眼には止まらない。
「そうだよ、お嬢さん。君が・・・・・その望みをかなえてくれるのが、私の一番の望みだ」
どうかな?
首の後ろを撫でられ、くすぐったさに身を捩るアリスを不意に抱き寄せる。首筋にキスを繰り返しながら、ブラッドは甘やかに告げた。
「君の望まないものを消してやる」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「だから、私に強請りなさい」
さあ、その可愛らしい唇で、教えてくれないか?
「アリス」
睫毛が触れるほど近くから覗きこまれ、アリスは彼のジャケットを握りしめたまま、震えた。
心臓が破裂しそうだ。
両手を上げて喜びたいほどの歓喜が、胸の奥から溢れてくる。
これで、私の勝ちは決定だ。
「アリス?」
甘やかに促されて、震える吐息に声を乗せる。
「私が欲しいのは・・・・・貴方が持っている、この世界でたった一つしかない紅茶、よ」
何度首元のリボンを結び直しても、喉に散らされた赤い痕は隠れない。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
ベルガモットに抱きしめられて眠るのは嫌じゃない。嫌じゃないが、こんな風に痕を残されるのは困るのだ。
鏡を前にして、アリスは溜息を零した。
アリスの仕事は、この部屋から直通の図書室でのものだし、会う人はベルガモット以外に居ない。だから、支障が無いと言えばないのだ。だが、アリスは仕事は仕事、プライベートはプライベートと分けたい人間なのだ。
彼しか会う人が居ないとは言え、アリスはメイド服で仕事をする。きちんと規定された着こなしをして仕事をしているのだ。
コンシーラーで一度消してみた事が有ったが、余り有効な手段では無かった。
絆創膏でもはろうかと考える。悪い虫に刺されてみっともないからとかなんとか言って誤魔化そうか。
だが、こんな適当な言い訳で騙されてくれるのはエリオットくらいしか思いつかなくて、やっぱり痕が消えるまでこの部屋と図書室からは出ないようにしようとアリスは決める。
溜息を突いて彼女は部屋から出る。
出て、唖然とした。
「・・・・・・・・・・・・・・・え?」
ドアを開けると、そこには赤い絨毯の敷かれたドアと電燈の並ぶ、ホテルのような廊下が続いている筈だった。
だが、今見えているのは、暗い石畳が続く冷え冷えとした廊下だった。薄暗い電燈が、十分な距離を置いておかれるそこは、まるで監獄か牢獄の廊下のようで、アリスは眼を瞬いた。
どういう事だ?
唖然と立ち尽くし、思わず後ろを振り返る。
「!?」
そこには、アリスが慣れ親しんだ、重厚な造りのチョコレート色のドアが有る筈なのに、鉄格子の嵌った、重そうな鉄の扉が有るだけで、彼女は仰天する。
「え?」
思わず手を伸ばして触れる。金属の無機質な感触が掌に伝わり、彼女の生きた温度が吸い取られていく。
格子の嵌った小さな窓から、自分の居たと思しき部屋を覗き込むが、打ちっぱなしの床に、質素なベッドしか見えない。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
心臓がばくばくと煩くなり、背筋を嫌な汗が滑って行く。
ここはどこだ?
怖くなり、アリスは前を向いた。石造りの壁と、細い廊下。アリスの前から左右に伸びるその廊下を、彼女はゆっくりと歩き出した。
かつんかつん、と彼女のヒールの音がこだまし、それ以外に音がしない。
ここは本当に帽子屋屋敷なんだろうか。
思い出したように、監獄のドアが現れては後ろに流れていく。格子の嵌った小さな窓は、一様に暗く、アリスは覗く気になれなかった。
マフィアの屋敷だもの。こういう暗部があっても可笑しくはない。どこかに拷問部屋とか、捕まえた捕虜を閉じ込めておく部屋とか、あっても変ではないのだ。
(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)
そう考えると、ますますアリスは身体に嫌な汗を掻くのを覚えた。知らずに、彼女の足が速くなる。鼓動が駆け出し、恐怖にかられるように、アリスは廊下を走りだした。
ドアと電燈が後ろに流れて行き、廊下は永遠と続く。
どうしよう、間違えたのだろうか。
こちらではなく、反対側が正しかったのだろうか。
そもそもなんで?
今まで考えたくなくて、心の奥底に押し込めていた疑問が、じわりとアリスの胸を犯していく。
そもそもなんで、自分はここに居るのだろうか。
眠りに落ちる前の時間帯。彼女は確かにベルガモットと一緒に居た。ベッドの上で、なだめるように抱きしめられて。甘い甘い香りに抱かれて眠った筈だ。
眼が覚めて、彼が居ないのにはがっかりしたが、確かアリスは彼女に与えられた部屋に居たのだ。
そこから一歩出てしまったが為に、こんな恐ろしい場所に居る。
「っ」
石畳に躓き、アリスは転んでしまう。思わず突いた膝と掌に痛みが走り、擦りむけたそこに血が滲むのに眼を見開く。
一瞬夢かと期待したのに、じわりと溢れる赤に打ち砕かれる。
はあはあ、と己の息遣いだけが狭い廊下の高い天井に響き、彼女の先ほどまでの靴音が、こだましながら吸い込まれていく。
白い電燈の作る、不気味な闇。アリスの直ぐ横には鉄の扉。座り込み、嫌な汗に全身を濡らしながら、アリスはじっと暗く四角い、鉄格子のはまった覗き窓を見上げた。
「・・・・・・・・・・誰かいる?」
痛む喉から、絞り出すように声を上げてみる。彼女の声は、誰かに訊かれることなく、床に堕ちて沈んでいく。
「誰か・・・・・」
もう一度叫んでみて、彼女はのろのろと立ち上がった。
ここはどこだろう。
廊下は終わらないし、閉じ込める為の、温度の無いドアは永遠と続いている。
もう、自分が居た部屋のドアも判らない。
(私、馬鹿だ・・・・・)
その瞬間、全身の血が、足元に落ちるのを感じて、アリスは震えた。
同じような景色が永遠と続くそこで、どこが彼女の出発点か判らなくなってしまったのだ。
やみくもに動いた所為だ。もしかしたら、自分が最初に出た場所に、何か秘密が有ったのかもしれないのに、もう、アリスにはそれがどこか判らない。
進むしかない。
ドアを開けて、中を覗く勇気が無いのなら、先へ先へ行くしかない。
ポケットのハンカチで膝を拭い、掌を抑えて、アリスは再びゆっくりと歩き出した。
どれだけ歩いたか判らない。冷たい床に座り込み、アリスは膝を抱えて蹲っていた。
終わりが無い。時々思い出したように叫んでみるが、反応はなかった。不安に胸が焼かれている。
(ベルガモット・・・・・)
ぎゅっと眼を閉じて、アリスはその名の男を思い出す。
君を抱くのは全てが終わってから。
そう言われたのを思い出し、アリスは泣きそうになるのを堪えた。
彼はそう言ってくれた。彼だけがアリスの味方だ。アリスがアプリコットじゃないと知っても尚、傍に置いてくれた。
帽子屋に話す事も無く、アリスがどうしてここに潜入したのかも、何一つ訊かなかった。
ただ、傍に居て抱きしめてくれた。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
その彼が、きっとアリスの事に気付いてくれる。今は仕事が忙しいとか、そういう理由で助けに来れないけれど、アリスがこうして弱っているのだと知ったら、きっと助けてくれる。
ここから連れ出してくれるに決まっている。
(泣くな、アリス・・・・・)
そのためにも、アリスはしっかりしなくてはならないのだ。
再び、ゆっくりと顔を上げて、アリスはぎょっとしたように眼を見張った。
目の前の扉の、今まで暗いだけだった四角い覗き窓に、黄色い光が宿っている。
どくん、と不安と期待に心臓が高鳴る。
そこに居るのは誰なのか。
ドアを開けるべきか、声を掛けるべきか。
ちらちらと揺れる黄色い光を見詰めたまま、アリスが硬直していると、不意に大きな音を立てて、冷たい監獄のドアノブが揺れた。ガチャンガチャンガチャン、と何度も揺すられ、耳障りな音がこだまする。
異様な光景に目を奪われ、固唾を飲んで立ち尽くしていたアリスは、ゆっくりと押しあけられるドアに、目が釘付けになった。
視線が逸らせない。
唇を噛んで、じっと眺めていると、開き切ったドアの向こうに二つの影が立っていた。
一人はとても背の高い、オレンジ色の髪から、茶色のウサギ耳が揺れる男。
もう一人は、黒いドレスの裾のレースをふわりふわりと揺らし、同じような帽子を被った少女だった。
「・・・・・エリオットと・・・・・アリス・・・・・」
何が出てくるのかと、緊張しっぱなしだったアリスは、目の前に現れたよく知る人物二人に呆らかにほっとした。
だが、そんなアリスとは対照的に、エリオットの表情は険しく、アリスに至っては嫌な笑みを浮かべている。
「本当ね。ボスが言ったとおりだわ」
「・・・・・・・・・・・・・・・え?」
「まあ・・・・・確かにな」
弾んだ声で告げるアリスに、苦々しく答えるエリオット。訳が判らず、冷たい廊下に座りこんだままだったアリスは、その二人をゆっくりと見わたした。
「あ・・・・・の?」
安堵の方が大きかった気持ちが、徐々に不安になって行く。しゃがみこんだまま二人を見上げていたアリスに、アリスがゆっくりと近づいた。
こつん、と彼女の踵の音が、廊下に響き渡る。
「あなたがアプリコット=アーガイル?」
「・・・・・・・・・・え?」
腕を組み、斜めに見下ろされて言われた台詞に、アリスの目が点になった。数度瞬きを繰り返していると、「違うの?」とアリスが更に尋ねてきた。
違う。
アリスはアリスで、目の前にいるアリスと同じ人間だ。
だが、その隣に居るエリオットが気になって、アリスはそう言えない。口ごもっていると、「ほらね」とアリスがエリオットを振り返った。
「・・・・・なあ、あんた。名前何って言うんだ?」
「え?」
今更な気がしないでもないが、唐突にエリオットにそう尋ねられて、アリスは困った。
彼はアリスに「アプリコット」という「役」をくれた張本人だ。アリスがアプリコットではない事を一番に知っている。
だからと言って、アリスは己の名前を名乗る事が出来ない。
名乗っても構わないが、その場合、アリスは目の前に居る黒いドレスのアリスと同一人物で、勇者である、と認めなくてはならないからだ。
(・・・・・・・・・・・・・・・なんで・・・・・)
答えられない、考え込むアリスに、エリオットの表情が険しくなる。焦る彼女を余所に、ドレスのアリスがくすりと小さく笑った。
「名乗れないみたいね」
「・・・・・・・・・・みたいだな」
恐ろしく冷たい声が聞こえ、アリスはぎくりと背を強張らせた。
どういう事だろう。
何が起きているのだろう。
「大体・・・・・ここに居る時点で、アンタが不審者だってのは明確だ」
エリオットに低く告げられて、アリスは混乱する。どういうことだ?不審者?
「あの・・・・・私、別に好んでここに居るわけじゃ・・・・・」
「だろうな。アンタ、ブラッドから切り捨てられたんだよ」
「・・・・・え?」
思わず目を瞬くアリスに、エリオットは「ここは、領主が不要と判断した時間を保存しておく場所だ」と素っ気なく答えた。
「不要と判断した・・・・・時間?」
「不必要、表の世界には要らない、無意味な時間」
残像よりも性質がワリぃモンを放り込んでおく場所だよ。
肩をすくめるエリオットの言葉の意味が判らない。助けを求めるように、もう一人のアリスを見れば彼女はその美しい唇を艶やかに引きあげてにこりと笑った。
「だから、あなたはブラッド=デュプレから必要ない存在だって判断されたってこと」
判断された存在は、ここを永遠と彷徨う事になるんですって。
怖いわね、と眉を寄せるアリスに、アリスは震えた。
「そんな・・・・・だって私、ブラッドに一度も会った事ないのに!」
何が不興を買ったのか、心当たりがない。そう訴えるアリスに、エリオットが鼻を鳴らす。
「会った事ねぇ人間が屋敷に居るんだ。警戒もするだろうさ」
「入れたのはあなたよ!?」
理不尽な言いがかりに声を荒げれば、エリオットが一瞬怯む。焦ったように視線を逸らす彼に気付かず、アリスが更に声を張り上げた。
「なら、あなただってブラッド=デュプレを裏切った事になる!」
「違うわ」
そのアリスの必死の抗議を、アリスが封じ込めた。彼女は自分の金髪を指に巻きつけてくるくるしながら、にこりと笑ってアリスを見た。
「あなた、私の妹なんですってねぇ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
ぎょっとするアリスを余所に、アリスは「ねえ」とエリオットの腕に自分の腕を巻き付けた。
「私、あんな人、知らないわ」
「アリス!」
思わず声を荒げるアリスに、振り返ったドレスのアリスはにこりと笑った。見惚れるほど可愛らしく、妖艶な彼女の笑み。
だが、それはアリスの背筋をぞっと凍らせた。
本気だ。
あの子は本気でアリスを消しに掛ってるんだ。
「待って!お願い!話を聞いて!!」
エリオットから不審者、というよりも敵対している人間を見るような眼差しでみられて、アリスは焦る。
ここに居続けるなんて無理だ。
気が狂ってしまう。
永遠と続く、終わりの無い廊下を歩き続け餓死するなんて、あり得ない。
「弁解なら、ブラッドの前でするんだな」
アイツがこの地のルールだからな。
エリオットがアリスの肩を抱いて横に避ける。と、彼の背後に続く明るい光の灯った廊下から、黒づくめの男たちが現れて、あっという間にアリスを縛り上げた。
「っ!?」
ぎり、と縄が手首に食い込む。痛みに呻くと「あんま手荒な真似すんなよ」とエリオットが告げ、じっとアリスの翡翠を覗き込んだ。
「あんた・・・・・何もんだ?」
同じ質問をされて、アリスは泣きそうになる。誰に何を言えばいいのか。頼みの綱のアリスは、軽やかな足取りで歩き始めている。
「ベルガモットは・・・・・」
エリオットの質問に答えず、彼女は唯一彼女の存在を知りながら、黙認してくれた人の名前を出した。
「ベルガモットはどこ?」
縋るように尋ねれば、ちらっとエリオットの視線が明後日の方を向く。だが、再び戻された時には素っ気なく「あんたによろしくってさ」とだけ答える。
「・・・・・・・・・・・・・・・え?」
じわり、と不安が過る。
それはどういう意味だろう。
何を指して言われた言葉なんだろう。
よろしくって・・・・・何が?
「ほら、とっとと歩けよ」
「っ」
肩を押され、よろけるようにして歩きだす。
ベルガモットはどこだろう。何が起きているのだろう。ブラッドに不要と認定されたってどういうこと?
アリスは・・・・・アリスは・・・・・
顔を上げ、先頭を行く黒いドレスの裾を見詰めれば、くるりと振り返ったアリスが、全ての人間を虜にするような、輝かしい笑みを見せてきた。
「私は欲しいものを手に入れるの」
「・・・・・・・・・・」
「私の勝ちよ、名無しのお嬢さん?」
可愛らしく首を傾げるアリスに、アリスは身体が震えた。
(ベルガモット・・・・・)
大丈夫だと言ってくれた。
君の味方だと。
君は私の物だと。
それに縋るアリスは、戻ってきた、星の輝く夜の屋敷を歩く。使用人さんもメイドさんも、アリスの事を見ない。彼らは視線を逸らし、黒服に囲まれて歩かされるアリスを見ようともしない。
(・・・・・・・・・・・・・・・)
泣くな。大丈夫。きっと上手くいくから。
全てが終わったら。
そう言って真剣に見詰めてくれたベルガモットだけを心の支えにして、アリスは屋敷の奥へ奥へと歩いて行く。
やがて、いつぞやの扉の前まで来て、アリスが嬉しそうに弾んだ声で入室の許可を求め、ゆっくりとドアが開いた。
「連れて来たわよ、ブラッド」
エリオットに背中を押されて、アリスは手首の戒めを解かれ、よろけながら室内に入る。
部屋はオレンジ色の光が満ちて、ほんのりと明るい。本棚の作る影の一部が揺らめいて、アリスは何度も深呼吸をした。
いきなり撃たれて殺される事はない筈だ。きっと、事情を問われるだろう。
どこまで明かしていいか判らないが、とにかく、この場を乗り切る事だけ考えよう。
かたかたと震える足を叱咤し、アリスはきっと顔を上げた。
大丈夫。
飲まれるな。
絨毯を踏む足音が、微かに響き、アリスは徐々に近づく影をじっと見つめた。
「この子が、アプリコットを名乗ってる女よ」
アリスの弾んだ声に、帽子をかぶった男は低く笑った。
深くかぶったそれの所為で、顔が見えない。
乗馬服なのか礼服なのか、おかしな白の衣装にブーツ。手には帽子の付いたステッキ。
そして、ふわりと香るのは。
(甘い・・・・・)
「君は、本当に退屈しない子だね、アリス」
低く甘く、身体の芯を溶かす声。
ゆっくりと顔を上げた男の、碧の瞳が、息を吸い、目を見開くアリスに注がれた。
「はじめまして、名無しのお嬢さん」
帽子屋ファミリーのボス、ブラッド=デュプレだ。
口元に笑みを刻んで名乗った男に、アリスの瞳が絶望に見開かれた。
「あな・・・・・た・・・・・」
よく知る顔。よく知る声。よく知る仕草に、よく知る香り。
そこに居るのは間違いなく、ベルガモットだった。
20101108