ノーリスク・ノーリターン






「・・・・・・・・・・・・・・・甘い香りがする」
 部屋に戻ってきたブラッドに向かって、アリスは開口一番にそう告げた。
 彼の部屋で、彼から贈られたドレスを部屋いっぱいに広げ、その前に腰に手を当てて立っていたアリスは、眉間にしわを寄せる。
「どこに行ってきたの?」
 唇を尖らせて、上目遣いに見上げるアリスに、ブラッドは堪え切れずに笑みを零した。

「仕事だよ?お嬢さん。これ以上ないほど重要な、ね」
「・・・・・・・・・・まるで浮気の言い訳みたいね」
 ふいっとブラッドから視線を逸らし、アリスは不機嫌そうに赤いソファに座りこんだ。
「このドレスは気に入らなかったか?」
「・・・・・気に入らなくなった」
 ぎゅっとクッションを抱きしめてそっぽを向く。にやにや笑いながら、ブラッドは彼女の隣に腰を下ろした。

「・・・・・・・・・・あまいにおい」

 再び告げて、嫌そうに彼から距離を取る。ソファの端まで移動して、尚且つブラッドと視線を合わせようとしないアリスに、彼は傍に寄ると長い髪に手を伸ばした。
 くるっと指に巻いて口付ける。
「私と君の関係は、別に恋人同士と言うわけじゃないだろう?」
 甘やかな台詞に、アリスは「そうね」と素っ気なく答える。
「そうよ、その通り。私はあなたに攫われて、ここに囲われているだけですもの」
「よく判ってるじゃないか」

 するっと金髪から手を離し、ブラッドは背もたれに腕を置いて、触れずに後ろから囲う様にアリスを閉じ込める。
 甘い香りがアリスを包み込み、彼女はぎゅっと唇を噛んだ。

 何の香りだろう。
 甘くて・・・・・甘ったるくて、胸やけしそうな香り。
 普段の彼からは、薔薇と硝煙の匂いがする。だが、今日はそのどちらも掻き消すような、甘い香りが漂っている気がするのだ。

「・・・・・・・・・・私と君は・・・・・そうだな?簡潔に言えば敵同士、かな?」
「ある意味そうね」

 耳元で囁かれる台詞に、アリスは後ろを振り返ると、そっと手を伸ばした。
 真白く、綺麗な細い指が、彼の頬に触れる。

「・・・・・魔王と、囚われの姫君、と言った所かしら?」
 腕を伸ばして、その首に抱きつく。強請るように唇を寄せるも、男の態度は素っ気ない。唇を拒否して、首筋に顔を埋めるブラッドに、アリスはむっとしたように顔をしかめた。
「マフィアのボスが、据え膳食わぬなの?」
 不機嫌な彼女の台詞に、アリスを膝の上に抱き上げた男が、面白そうにそのエメラルドを覗き込んだ。
「さあ?どうしようか、考えている所だよ?」

 君を食べたら甘いのか、苦いのか、私はまだ見定めている途中で、ね?

 くすりと笑い、アリスの頬に手を伸ばす。つっと指先で撫でられて、「んぅ」と甘い声を上げる。うっすらと肌に朱が混じり、ネグリジェから見える丸く細い肩が桜色に染まっている。
 甘えるような仕草で、ブラッドのジャケットを握りしめ、アリスは潤んだ瞳で男を見上げた。

「レディを焦らすなんて・・・・・最低ね」
 濡れた唇がそう唱えれば、ブラッドが珍しく声を上げて笑った。

「君はとてもじゃないが淑女には見えないよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 むうっと顔をしかめるアリスの頬に手を置いて、ブラッドがにたりと笑った。

「どこからどうみても、マフィアの情婦だ」
「・・・・・褒められていると取るべきなのかしら?」
 挑戦的に見上げるアリスに、ブラッドは「そうだな」と瞳の奥に物騒な色を宿して肯定した。

「君は私の情婦だよ、お嬢さん。勇者が情婦なんて・・・・・最高に面白い」
 ふっと、人を馬鹿にしたような笑みを浮かべると、ブラッドはアリスの髪に指をくぐらせる。その指先を見詰めながら、アリスも表情を落とした。

 途端に冷たい空気が二人の間に漂うが、それは一瞬で。

「!?」

 ぐいっと顎を捕えられて、無理やりブラッドの方を向かされ、アリスは眼を見開く。

「私の情婦なら・・・・・私を退屈させるな」
「・・・・・・・・・・」

 じりっと肌が焼けるような威圧感。一瞬気圧されるも、可愛らしくアリスは笑った。

「なら、わたくしの我儘をきいてくださる?」
「なんなりと、姫君?」

 くすくす笑うブラッドに抱きついて、アリスは眼を閉じた。

 甘い甘い、甘ったるい、胸やけがしそうな香り。

(何の香りかしら・・・・・)
 他の女の香りである事は間違いない。

(むかつく・・・・・)

 ぎゅっと眼を閉じて、身をする寄せるアリスを、柔らかく抱いたまま、ブラッドはゆっくりと笑った。

 本当に本当に、退屈しない。
 これほどまでに、面白い存在だとは。




「エリオット」
 廊下の向こうを行くオレンジの髪に、ウサギ耳が特徴のマフィアの2を見つけて、アリスは早速近づいた。
 黒のドレスの裾がふわりふわりと揺れて、彼女の可愛らしい膝を見え隠れさせている。
「アリス」
 書類と袋に詰められたにんじんブレッドを抱えたエリオットが、上司の連れてきた女を見かけて眼を瞬いた。
「私、あなたにお願いがあるの」
 彼の前で立ち止まり、アリスは芝居掛った仕草で両手を胸の前で組み合わせた。
「大好きなブラッドのことなんだけど、いいかしら?」
「ブラッドがどうかしたのか?」
 うるうると瞳を潤ませて見上げられて、エリオットは困惑する。今にも泣き出しそうなアリスに、どう接して良いか分からない。おたおたするエリオットを横目に、アリスは「ブラッドに女がいるでしょう」とずばりと言い切った。
「へ?」
 間抜けな顔で眼を瞬くウサギさんに、アリスは瞳一杯に涙をためて「私以外に、女が居るでしょう!?」と詰め寄った。
「え!?ちょ・・・・・あ、アリス!?」
 がばあ、と抱きつかれ、上目遣いに見上げられる。粒の大きな、綺麗な涙が、ぼろり、と彼女の頬を転がり落ちた。
「判ってるの。でも・・・・・納得できないの。だから、会いたいの。駄目かしら?」
「おおお、落ちつけってアリス!」
 慌てふためきながら、エリオットはアリスの肩を押して自分から引き離す。
「あ、会いたいって誰に?」
「その女共に」
「ええ!?」
 ぎょっとするエリオットに、アリスはくるりと背中を向けると、両手で顔を覆ってしゃがみこんだ。
「私・・・・・ブラッドに愛されてる自信が無いの」
「へ?」

 愛されている自信?

 困惑する気の良いウサギのお兄さんを余所に、アリスは涙ながらに続ける。

「いいの・・・・・それはいいのよ。私は数居る恋人の内の一人っていうことでも構わないの・・・・・でもね・・・・・でもね、エリオット!私はその中でも一番になりたいの!」
 しゃがみこんだまま振り返り、泣きぬれた眼差しで見上げる。そのアリスに、エリオットはますます混乱した。
「や・・・・・その、数居る恋人の内の一人っていうか、あの・・・・・アリスは別にブラッドの恋人ってわけじゃねぇだろ?」
「黙りなさい、オレンジウサギ!」
「うさっ!?」
 俺はウサギじゃねぇし、というエリオットの抗議は、続くアリスの台詞に掻き消される。
「良い事!私はブラッドの恋人なの!勇者だろうが魔王だろうが関係ないの!」
 私はあの人を愛してるの!!

 天井の高い、帽子屋屋敷の廊下。
 そこに、立ち上がったアリスの主張がわんわんと鳴り響く。ちらりちらりと使用人が振り返り、ひそひそと固まって話し始める。
 何となく・・・・・何となくだが、エリオットが悪者扱いされているようで、彼はますますますます困惑した。

「い、いや・・・・・だってそれ・・・・・ブラッドが言ったのか?」
「ブラッドが女に愛してるとか言う様な男に見える?」
 ふん、と馬鹿にしたように見上げられてエリオットは本気で悩んだ。
 言うだろうけど、それは多分、戯れとして言葉に出されたものに過ぎない気がする。
「う・・・・・うんまあ・・・・・アイツが本気になる女ってのは、俺も見てみたいかもな」
「エリオット、協力してちょうだい」
 それに、アリスは三角にとがらせていた瞳を再び潤ませて、エリオットの手を握りしめた。
「私がその、本気で愛される女性になるためには、ブラッドに眼に物見せてやりたいのよ」
「め、眼にモノ?」
 明らかに及び腰のエリオットに更に詰め寄り、アリスは彼の手をぎゅううううっと強く強く握りしめる。
「彼の恋人たちに宣告しに行くのよ。今すぐ、ブラッドとの関係を清算してちょうだいって。それが駄目なら、実力行使するわよって」
「・・・・・・・・・・・・・・・それ、いいのか?」
 ガリガリと頭をかくエリオットは、何となく助けを求めるように使用人達に眼で合図を送るが、彼らは、『エリオットさま、頑張ってください〜』という意味での生温かい反応しかしてこない。
 エリオットは眩暈がした。
 別に女共を屠って歩くのは問題ない。
 ブラッドが彼女達にそれほど興味を示していないのも知っている。それなりに利権が絡んだりもしているのかもしれないが、大抵の場合、自分の男としての欲求を満たす為の行為か、もしくは戯れだ。
 だが、その行為にアリスが絡むと別だ。

 アリスの命によって、帽子屋組織の2が彼の愛人たちを清算して回っている。

 それはまた、別の意味を帯びてくるだろう。

「ね?エリオット?」
 壮絶に可愛らしく見上げられて、エリオットは絆されそうになるが、ふるふると首を振った。

「それは、ブラッドの許可が無いと駄目だな」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 彼は2らしく、ぱしりと言い切った。アリスの唇が尖る。
「どうして?」
「当然だろ。ブラッドの女をどうこうするんだから、ブラッドの許可がいる」
「それじゃあ駄目なの。判るでしょう?ブラッドに私を軽んじたらどうなるのか、見せつけてやろうとしてるのに」
 意味が無いじゃない。

 頬を膨らませるアリスに、エリオットは「駄目なものは駄目だ」と子供に言い聞かせるようにぴしりと告げた。
「・・・・・・・・・・・・・・・じゃあ、ブラッドの許可が有ればいいの?」
「ああ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・どうしても?」
「いいじゃねぇか。アイツが屋敷に連れてきた女なんて、アンタが初めてなんだからさ」
 それだけアンタを気に入ってるってことなんだよ。うん。

 そう告げるエリオットに「でも私は一番がいいの」と俯き加減にアリスが答えた。ぎゅっとスカートの裾を握りしめる彼女の、エメラルドグリーンの瞳は、今まで見た事が無いくらい陰っていて、エリオットはおや、と空色の瞳を大きくした。

「アリス?」
「いいわ。一番になるためだもの。ブラッドに許可を貰うわ」
 きゅっと唇を噛み、アリスはふわりと黒いスカートを翻して数歩廊下を歩くも、再び反転すると、ほっと胸をなでおろすエリオットのマフラーを握りしめた。
 ぐえ、とヒキガエルのような声を上げるエリオットを引きずって、アリスが「あんたも来るのよ!」とおもむろにブラッドの部屋に向かって歩き出した。





「ああ、別に構わないよ」
「えええええええ!?」
 執務机に付いたまま、書類にサインをしていた男にあっさりと許可されて、驚いたのはエリオットだった。
 てっきり、勝手な真似は例えアリスといえども許さない、とかなんとか言うかと思ったのだ。
「なんだ?」
 顔を上げてにたりと笑う上司に、エリオットは「いやその・・・・・」と耳を萎れさせる。
「男冥利に尽きるじゃないか。こんなに可愛らしいお嬢さんが、私からの愛を得たい一心に他の女達を血の海に沈めたいなんて」
 にっこりと笑って言われ、アリスはつんと顎をそびやかした。
「私は、欲しいものの為なら手段は選ばないの」
「・・・・・だ、そうだ」
 エリオット、とブラッドに振られて、彼は渋面で上司を見る。
「手を貸してやれ」
「けど、これから他の組織の連中と会合が」
「護衛なら双子に頼むから構わない。お前はお嬢さんの気が済むまで相手をしてやれ」
 何名か部下を連れてっても構わないぞ。
 えー、と不服そうな声を上げるエリオットの名をもう一度呼んで窘め、ブラッドは口元に笑みを漂わせながらアリスを見遣った。
「ただ、勘違いしてはいけないよ、お嬢さん。他の女共を抹殺したからと言って、君が私の一番になれるかどうかは、判らない」
 褒美は、なかなか与えられないからこそ、褒美なんだよ?
 にこにこ笑うブラッドに、アリスは頬を膨らます。
「そう言うと思ったわ」
 でも、私は何が何でもあなたの事を手に入れて見せるから。
 挑戦的にブラッドを見上げて笑う。
「私は・・・・・何もしないで黙って見てるなんて真似、しない主義なの」
「それはそれは・・・・・お手柔らかに」
 机の上に両肘を付いて手を組み、その上に顎を載せてブラッドはすっと眼を細めた。
「どんな手を使ってくるのか楽しみだ」
「覚悟してちょうだい」
 言い切り、アリスはくるりと彼に背を向けると勇んで部屋を出ていく。
「積極的なお嬢さんだ」
 くすくす笑うブラッドに、エリオットが溜息を吐く。これから連れて行く部下を決めなくてはならないし、それに、まずブラッドと関係のあった女共を探さなくては。
「・・・・・・・・・・本当に退屈しない」
 あれくらいの積極性が欲しいものだ、と不意に零れた台詞に、部屋を出て行こうとしていたエリオットが振り返った。
「なあ、ブラッド」
「なんだ?」
 三月ウサギにしては珍しく、彼は五秒以上考えた上で口を開いた。
「・・・・・・・・・・アンタの愛人、でいいんだよな?」
 殺して回るの。
 尋ねる2に、ブラッドはにっこりと笑みを深めた。
「ああそうだよ?くれぐれも間違えないように」
 くっくっく、と肩を震わせるブラッドに、エリオットは複雑な顔をして、やれやれと溜息を吐くのだった。




「何かあったの?」
 ぞろぞろと連れだって出掛けるアリスを、廊下の窓から見下ろして、アリスは傍に居た同僚に声を掛けた。
「ああ、お嬢さまが〜エリオットさまを連れて〜遠征に出掛けるんです〜」
「え・・・・・遠征?」
 よく見れば、金髪のアリスはパンツスーツ姿で、その金髪を綺麗にまとめあげている。ヒールの高い靴で颯爽と歩く姿は、いつか夢見たキャリアウーマンな自分でアリスは急に不安になった。
「も、もしかして・・・・・勇者なのにマフィアの仲間入りしちゃったの?」
 恐る恐る尋ねると「いやですわ〜お嬢様〜」と同僚はころころ笑った。
「マフィアの仲間入り〜といいますか〜もうすでに屋敷の女主人です〜」
「え!?」
「だって〜アリスお嬢さまは〜ボスの〜他の愛人とタイマン張りに行ったんですもの〜」
「えええ!?」

 なんだって!?

(な、何考えてるのよあの子はっ!!!)
 瞬時に青ざめるアリスに、同僚がはっと口元を押さえた。
「あ、で、でも〜アプリコットお嬢さまは〜多分〜暗殺対象外です〜」
「え?」
 アリスとしてはトンデモナイ事をしでかしに出掛けたアリスが、「自分の理想像である」という部分に青ざめただけで、自分の命の危険は感じていなかった。
 だが、同僚に言われて唐突に思い当たる。
(そ・・・・・そっか・・・・・私の暗殺対象になるかもしれないんだ・・・・・)

 屋敷の門の方に消えていく一行に、オレンジ色の頭を認め、エリオットは事情を知っているし、他でもないアリスがアリスの事を知っているのだから、自分が殺される危険性は皆無だろう。
 だが、アプリコットが本人じゃない事を知っているのはこの二人だけだ。
 アリスがいくら可愛く頼んだからと言って、エリオットの一存でブラッドの愛人を殺して回るなんて暴力的な案は通らないだろう。
 そうなると、そこにはブラッドの決定が有った訳で。

 必死に弁明する同僚に笑って見せて、アリスはその場を離れながら気持ちが凹むのを感じた。

 ブラッドにとって、アプリコットはアリスが望めば殺してしまっても構わない対象だと言う事だ。

(私の事じゃないけど・・・・・)
 どうしても、アプリコットに同情してしまう。ブラッド=デュプレとはそういう男で、そんな男に恋をしたアプリコットが馬鹿なのだ。
(恋すると馬鹿になる・・・・・か)

 とくん、と心臓が柔らかく跳ねて、アリスはかあっと真っ赤になった。ふるふると首を振る。

(アリスだって言っちゃた・・・・・)
 思い出すのは、理性を狂わせるぎりぎりでの出来事。夢と現がないまぜになったような、濃厚な時間。
 アリスの誰にも触れさせたことの無い場所に、触れた長く細い指先の感触を思い出して、アリスは腰が砕けそうになる。
(だ、めだったらっ)
 教えられたじわりと熱い感触は、出口を求めるようにアリスの身体を下から叩く。思い出すな、思い出すな、と気を紛らわせるように首を振っていると、不意に甘ったるい香りがしてアリスは硬直した。
 逃げ出すより先に腰を攫われて、手近にあった部屋に連れ込まれる。

 ばたん、と扉が閉じるのと同時に、アリスは後ろから伸びた長い腕に閉じ込められた。

「そんなに首を振ってどうした?」
「・・・・・・・・・・・・・・・別に」
「つれないな」
 くすくすと耳元で笑われて、アリスは顕著に反応する下肢に泣きたくなった。もどかしい感触の逃し方が判らない。
 そうこうしているうちに、アリスを閉じ込める手がイタヅラを始め、アリスは慌てて彼の手首を掴んだ。

「ベルガモット!」
 声を荒げて振り返れば、アリスの胸の下に腕をまわし、もう片方で太ももの辺りを撫でていた男が心底可笑しそうに笑いだした。
「なんだか、物欲しそうな顔をしていたから手伝ってやろうかと思ったんだが?」
「い、要らないわよ!」
「自分でする気だったのか?」
「もっと違うわよ!!」
 悲鳴のような声で告げて、身体を取り返そうとするが、後ろから圧し掛かられているために身動きが取れない。押し込められそうな気がして、慌てて己の両手を壁に付けば、これ幸いと、腰を引きあげられる。
「これはこれは・・・・・魅力的な格好だ」
「ちょ!?」
 かぷっと耳を食まれて、背筋が震えた。
「誘ってるんだろう?」
「こ、こんな場所で、こんな恰好で誘うわけないでしょう!?」
 アリスは今、メイドの格好をしている。ベルガモットとの仕事の前に、アリスがどうしているのか気になって本館に上がってきた所だったのだ。
「君からの誘いなら、どこでも別に構わないよ」
「この××××!」
「おやおや、酷い言われようだ」
 私は酷く傷ついたから、癒してくれないか?
「ちょ」
 ぐ、と更に腰を引き寄せられ、慌てるアリスに、無理な姿勢でキスを迫る。唇が触れて直ぐに、舌が触れる。あっという間に吐息を奪う様な口付けを施されて、アリスは眩暈がした。胸の下に有った手は、彼女の可愛らしい膨らみを服の上から堪能しはじめ、もう一方は、スカートの上から太腿の内側を撫でている。徐々にまくれ上がるスカートを気にしながら、アリスは拒みたくても両手で壁を掴んで体重を支えているため逃れられない。

(駄目駄目駄目駄目っ!)

 せめてもの抵抗、とアリスはベルガモットの口の端に歯を立てた。

「っ」

 痛みから、というよりはアリスの思いがけない抵抗に離れるベルガモット。その彼をなんとか押しやって、アリスは自分の身体を抱きしめるとよろける脚で彼から距離を取った。
「馬鹿っ!」
 真っ赤になって罵るアリスを見詰めて、ベルガモットは溜息を零した。
「なんでそんなに拒絶されるんだか」
「普通するわよ!拒絶!!」
「触って欲しそうだったのに?」
 首を傾げてにたりと笑う男を張り倒したい。ふるふると肩を震わせるも、瞳が涙目で、まるで効果が無い事にアリスは気付いていない。
 逆に男の嗜虐心を煽るだけだと言うのに、とベルガモットは嘆息した。
「・・・・・・・・・・君も、アリスのように積極的だったら良いのに」
「え?」
「あちらのお嬢さんは、部下を引き連れて己の敵を殲滅しにいったそうじゃないか」
 こちらのアリスもそれくらいしてくれればいいのに。
「いやよ。そんな・・・・・嫉妬に狂った情婦みたいな真似」
「嫉妬してくれないのか?」
 にやりと笑われて、アリスはぎくん、と身体に痛みが走るのを感じた。

 さっきから漂うベルガモットの香りは、自身のそれとは違う。
 最初は薔薇の甘い香り。
 この間までは、その名の香り。
 そして今は。

(胸やけしそう・・・・・)

 甘い甘い、甘ったるい香り。

 どこかで感じた事のある香りだけに、アリスは嫌な気持ちになる。
 唇を噛みしめるアリスの反応を、じっくり堪能した後、ベルガモットはアリスに手を伸ばした。

「・・・・・・・・・・アリス」
「っ」

 低い声が耳朶をうち、アリスの脚から力が抜ける。
 どろりと溶けるように甘い香りに包まれて眩暈がする。

(ヤダ・・・・・)
 なんとな逃れようと暴れる彼女を押さえ込んで、耳元で囁く。

「君が望んでくれるのなら・・・・・私はいくらでも君の言いなりになると言うのに」
「別になってもらわなくていいわ!」
「強請ってくれないのか?」
「強請る必要なんてないもの」
「どうして?」

 く、と顎を持ち上げられて、その碧の瞳に取りこまれる。アリスは涙目になりながら、視線を逸らした。

「自分の上司に、何を強請れって言うのよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 ぎゅっとベルガモットのスーツを握りしめて、必死で顔をそむけるアリスに、ふうっと男は溜息を洩らした。それからゆっくりとアリスを離す。
「上司、ね・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「君は、アプリコットじゃないんだろう?」
 言われて、アリスはちらりとベルガモットを見上げた。
「そうだろ?・・・・・アリス=リデル」
 ずきん、と胸が痛み、アリスはどう反応していいか分からず唇をかむ。そんな彼女にそっと手を伸ばして、ベルガモットは柔らかな唇を撫でた。
「なら・・・・・別にブラッド=デュプレのモノじゃない」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「君にアプローチを掛けても何の問題も無いと言うわけだ」
 目蓋に口付けられて、アリスはひゅっと息を呑む。
 確かに・・・・・確かにそうかもしれないけれど。

「・・・・・あるわ」
 頬を撫でる彼の手を掴んで、アリスは視線を逸らしたままぽつりと漏らした。陰る表情に、ベルガモットは眼を細める。
「何故?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 甘い甘い香り。
 誰かの香り。
 どこかで感じた香り。

(私は・・・・・あんな風なアリスにはなれないもの)
 彼から感じる、彼のとは違う香り。その香りの裏に存在する女性を、アリスは殺して回りたいとは思えなかった。
 それよりも、彼女達と渡り合える自身も無い。
 彼女の理想が、一番を目指して歩いて行くのを、見上げる事しか出来ないのだ。

(それに・・・・・)
 恋なんかしたくない。

 とくん、とまた柔らかく跳ねる心臓を無視して、アリスはベルガモットを見上げた。

「あなたに堕ちたら、ろくな事が無さそうだもの」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 肩をすくめて告げるアリスに、ベルガモットはしばらく視線を落とす。
「・・・・・どうして?」
「・・・・・・・・・・・・・・・こんなに手慣れている人を好きになったら、苦労しそうだわ」
「・・・・・・・・・・信用が無いな」
 ふう、と溜息を吐くも、ベルガモットはそれ以上何も言わなかった。弁解してくれれば、と多少期待していたアリスは、想像以上にがっかりする。
 もしここで「そんなことはない。君が一番だよ」と言ってもらえたら・・・・・
(って、馬鹿は私だ)
 一人で赤くなるアリスに、ベルガモットが囁くように告げる。
「恋は計算や打算でするものじゃないよ?」
「知ってるわ」
「なら、堕ちるのも一興じゃないか?」
 瞳を覗きこまれて、アリスは眉間にしわを寄せた。
「リスクは好きじゃない」
「・・・・・堅実な事で」

 面白くないな、と呆れたように言われてますます落ち込む。

「そうよ。何の面白みも無いの。だから、もうからかうのは止めて」
「からかってない」
 あっさり言いきられて、アリスは言葉を飲んだ。
「が、からかっていると思われているのなら・・・・・まあ、それでも構わない」
 彼の指先が、アリスの髪の一房を掴みあげ、ちゅっと口付けを落とした。
「なら、これならどうだろうか?君に投資をさせてくれ」
「・・・・・・・・・・投資?」
「そうだよ、慎重なお嬢さん」
 君に投資をして、利益を回収する。
「判りやすいだろう?」
 にっこり笑うベルガモットを、アリスは上目遣いで見上げた。
「利益って?」
「利益だよ。私に対して有益な事だ」
 ただし、投資価値に見合う分しか貰わない。
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 投資、とは何を言うのだろうか。上司として?部下が育つように?

 探る様な翡翠の瞳に、ブラッドは更に笑みを深める。彼女の警戒を、まずは壊さなくては。

「投資をした分だけ、君が利益を生み出してくれるのなら、上司としても嬉しい限りだし?私も退屈な仕事を随分愉快に過ごす事が出来る」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「見合う分しか回収しない。リスクは負わせないよ?」
 どうかな?

 謳う様に告げられるのは、確かにそれほど悪そうな条件でもない。だが、相手はこの組織のブレーンかもしれないのだ。
(どうしよう・・・・・)
 逡巡し、アリスは「その投資がどんなものか、見極めてからでも構わないかしら?」と慎重に尋ね返す。
 ベルガモットの瞳がちらりと光る。だが、それはアリスが見つける前に霧散し、男はにっこりとほほ笑んだ。
「もちろんだ。では、三時間帯後に図書室で」
「え?」

 そこで初めてアリスは、ベルガモットが普段のシャツ一枚にスラックスと言ういで立ちではないのに気付いた。

 なんだか良く判らない、トランプマークの柄が入ったスーツに、派手なネクタイ。ダークレッドのシャツ。

「仕事?」
 思わず尋ねるアリスに、ベルガモットは「ちょっと用事がって、双子と出掛けなくてはならないんだ」と肩をすくめて見せた。
 手近にあったテーブルから帽子を取り上げる。
 その帽子が、更に奇妙で、アリスは眼を瞬いた。

 普通の作りの黒のシルクハット。だが、そこにはモノトーンのトランプマークの柄が入り、薔薇と羽と、さらにはプライスカードが飾りとして付いている。
 奇抜すぎる帽子に、アリスは眼が釘付けになった。

「・・・・・・・・・・帽子を売りに行くの?」
 思わず漏れたアリスの台詞に、ベルガモットは吹き出した。
「確かに我々は帽子屋だが・・・・・そうだな。その名の通りの退屈な商売はやってないんだよ、お嬢さん」
「で、でも・・・・・それ値札よね?」
「ああ」
「・・・・・・・・・・・・・・・ボスの趣味なの?」
 そう言えば、このメイド服もデザインは可愛いが、トランプマークと薔薇付き帽子はデフォルトだ。
 ようやく思いいたって言えば「まあね」とベルガモットはあっさり認めた。
「・・・・・・・・・・・・・・・嫌じゃないの?」
 更に尋ねるアリスに、ベルガモットは何が可笑しかったのか、腹を抱えて笑いだした。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 何も知らない事を笑われているようで、だんだんアリスはむくれていく。
 最終的には「さっさと行きなさいよ!」と声を荒げて彼に背を向ける始末だ。
 その彼女を抱き寄せて、ベルガモットは妖しく笑った。

 彼女の首筋に唇を寄せて、ちゅっとキスをする。

「私は・・・・・何が何でも君を落としたくなったよ、アリス」
「生憎私は恋愛なんてごめんなの」
「何故?」
「・・・・・なんででも、よ」
「・・・・・・・・・・・・・・・アリス」
「なに」

 く、と顎を持ち上げられて、その瞳を覗き込む。見惚れるような笑みを浮かべて、ベルガモットは大層物騒な台詞を口にした。

「我々はマフィアだ。君が拒んでも?嫌がっても?泣き喚いても・・・・・変わらない事があるんだぞ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・最低ね」
「お褒めの言葉ありがとう」
「んっ」

 何もかも奪う様なキスをして、アリスの舌を蹂躙する。再び熱くなりかかる下肢を誤魔化すように膝を合わせ、アリスは溶けた眼差しでベルガモットを見上げた。
「・・・・・・・・・・慰めてやろうか?」
「仕事してきてください」

 押し返し、アリスはそう告げると、堪え切れず笑いだすベルガモットの声を聞きながら、ふらふらした足取りで部屋から出て行くのだった。






20101104