アリスとアリス




 その部屋は、図書室程ではないが、天井まで伸びた本棚が目に付く、大きな部屋だった。
「・・・・・・・・・・」
 図書室のそれと同じ、毛足の長い赤い絨毯を踏みしめて、アリスはおずおずと中に入る。正面に据えられているソファも、図書室のと材質は一緒だ。
 室内履きで真っ直ぐにソファの傍までやってきた金髪のアリスは、くるりと振り返ると、頬っぺたに人差し指を押し当てて首を傾げて見せた。
「紅茶でいいかしら?」
「あ・・・・・お構いなく・・・・・」
「そう?」

 にこっと笑う顔が壮絶に可愛らしくて、アリスは眩暈がした。
 なんなんだ、このアリスは。
 自分の比じゃない可愛らしさじゃないか。
 どうぞすわって、と優雅に促し、ふわりふわりとネグリジェのレースの裾を閃かせて歩く姿は、妖精のようだ。

(・・・・・・・・・・・・・・・)

 眩しすぎる少女を前にして、アリスはどんどん情けない気持ちになって行く。ブラッド=デュプレが彼女を連れて行ったのが頷ける。
 勇者らしいオーラとかなんとか、ピンクの猫が言っていた気がするが、確かにそうだ。

(人間に見えないわ・・・・・)
「はい、どうぞ」

 縮こまるようにして、ソファの端に腰を下ろしたアリスは、優雅な仕草で差し出されたカップの、綺麗な赤を眺めながらじわりじわりと凹んでいく。
 ちらっと眼を上げれば、ソファの背もたれに寄りかかり、気だるげな仕草でカップを傾けている金髪のアリスが目に飛び込んできた。

 先ほどまでの少女めいた仕草とのギャップに、アリスは更に度肝を抜かれる。

 妖艶な美女のような仕草。

(な、何なのこの子・・・・・)

 桜色の唇が艶やかに濡れて、覗く舌の赤にドキドキする。
(こ、れは・・・・・どんな男の人も虜にしちゃうわね・・・・・)
 同じ「アリス」なのにこの違いよう。
 きゅっと唇を噛んで、思わず俯くアリスに、「さて」と金髪のアリスが口を開いた。

「何から話したらいい?」
 ことん、とカップをローテーブルに置いて、斜めにこちらを見詰める金髪のアリスに、アリスは姿勢をただした。
「聞きたい事があるのなら、何でもどうぞ」
「・・・・・・・・・・・・・・・あなたは、勇者なの?」
「・・・・・・・・・・ま、そうね」
 肩をすくめ、金髪のアリスは綺麗に笑う。
「でも、それはあなたもでしょう?」
「・・・・・・・・・・・・・・・本当に?」
 それに、アリスは眉間にしわを寄せた。勇者って、そんなに何人もほいほい現れるものなのだろうか。
「・・・・・・・・・・そうね・・・・・正確に言えば、一人ね」
 そんなアリスの疑問を見抜いたかのように、金髪のアリスは、可笑しそうにエメラルドの瞳を細くした。
「じゃあ、やっぱり私たちのうち、どちらかが勇者ってこと?」
 尋ねるアリスに、金髪のアリスは「違う違う」と鈴を振るように、ころころと笑った。

「私たちはどちらもホンモノの勇者よ」
「でも、正確に言えば一人って・・・・・」

 謎かけのような言い方に、混乱するアリス。それを余所に、金髪のアリスはカップを持ち上げると一口紅茶を飲んだ。

「・・・・・・・・・・・・・・・ねえ、あなた。私を見て、なにか感じない?」
「え?」

 どういう事か説明して欲しいアリスとは対照的に、金髪のアリスはにやりと笑って彼女を見る。

「何かって・・・・・どういうこと?」
「何かよ。感じた事、教えて頂戴?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 一番最初に金髪のアリスを見た際に、アリスは思った事が有る。

「あなたと・・・・・どこかで会った気がする」
 ぽつりと漏れたアリスの台詞に、「そうそうそれ」と金髪のアリスが身を乗り出した。

 大きく開いたネグリジェの襟元から、真っ白な胸の肌が見えて、アリスは思わず赤くなる。
 自分のと、大きさが違う。
 オレンジとかぼちゃくらい。

(かぼちゃは言い過ぎよ、アリス・・・・・オレンジと・・・・・・・・・・・・・・・かぼちゃかな、やっぱり)

 不意に、ベルガモットの掌の感触を思い出して、ぞくん、と肌が粟立つ。慌てて夜の記憶を頭から追い払おうと首を振るアリスを、金髪のアリスは興味深そうに眺めた後、意味深に笑った。

「あなたが私の事を見た事があるのは当然よ」
 同じ場所に住んでるんだもの。

 ゆっくりと、桜色の唇を弧の形に引きあげ、アリスの翡翠を覗き込む。そのエメラルドに、アリスは目を見開いた。

「同じ地域にいるの?」
 でも、近所にアリス、なんて名前の子はいなかった筈だ。だが、金髪のアリスはそれに更に首を振った。
「地域、なんてものじゃないわ。同じ場所に住んでるのよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・同じ、場所?」
「そう。同じ場所」
 私はあなたの事なら何でも知ってるわ?

 くすくすと笑いながら、金髪のアリスはゆっくりと己の傍にあったクッションに横向きに寄りかかった。片足をソファの上に持ち上げて寝そべる彼女の太ももを、ネグリジェの裾が滑る。
 露わになる真白い足に、アリスは「なんでこんなに色気があるんだろう」とぼうっと見惚れてしまう。

「ねえ、アリス・・・・・私はあなたの事なら何でも知ってるわ」
 もう一度言われ、我に返ったアリスが眉間にしわを寄せた。
「・・・・・・・・・・どういう意味?」
「・・・・・・・・・・アリス=リデル。社交性はそれなりに有るけど、根暗で卑屈で後ろ向き。恋した人に告白もままならない、アプローチの途中でお姉さんのロリーナ=リデルに彼を取られてしまう。彼と言うのは、自分の家庭教師で、先生には本当によく懐いていて、嫌われたくないからやりたくも無い優等生を演じ、こっそりプレゼント用に編んでいた、渡す事の出来なかったマフラーは今ではベッドの下の収納ボックスの一番奥、ひよこの付いた袋にしまわれ」
「ストップストップストップ!!!!もう判ったわよ!!!!」

 自分の知られたくない部分を、全部言われて、アリスは青ざめて待ったをかける。
 まさか、ここまで他人に知られているとは。
 羞恥と恐怖で赤くなったり青ざめたりするアリスに、金髪のアリスはにっこり笑う。

「ね?知ってるでしょう?」
「あなた何者なの!?」

 思わずソファから立ち上がり、悲鳴のような声で誰何すれば、彼女はくすくすと楽しそうに笑った。

「私はあなたと同じ場所に住んでいる」
 ねえ、あなた。私の事が判らないの?

 立ち上がり、ゆったりと歩み寄ったアリスに、ずいっと顔を寄せられて、アリスは再びそのエメラルドを覗き込む羽目になった。

「あなたは私をよく知ってる筈よ?」
 あやすように、甘やかに言われて、ごくん、とアリスはつばを飲み込んだ。

 こんな人、知らない。同じ場所に住んでいる、なんて発言、××××じゃなきゃ言えないだろう。

「真っ白い肌。ふわふわの金髪。エメラルドグリーンの、アーモンド形の瞳に、桜色の唇。ばっちりのプロポーション」
 謳いあげるように己の美点を上げる金髪のアリスに、アリスは眉間にしわを寄せた。

「ねえ、思い出さない?」
 する、と彼女の白く長い指が、アリスの顎を撫でる。その瞬間、ちかり、と脳裏で瞬くものが有り、どきり、と彼女の胸が鳴った。

 もしも。
 もしも自分がもっと美人だったら。
 もっと可愛らしかったら。
 もっともっと少女めいた性格だったのなら。

「あ・・・・・なた・・・・・」

 君のお姉さんが好きなんだ、と大好きな人に言われたその日、アリスはベッドの中で、涙をこらえてそんな事を考えた。
 自分の中の『理想のアリス』。
 そうだったらいいな、そうだったらどうなんだろう、そうだったら望みは叶ったのだろうか。

「もしかして・・・・・」

 金髪で、こんな面白みの無いストレートじゃなくて、眼はもっとぱっちりしててアーモンド形。唇も可愛らしくて、こんな貧相な身体じゃなくて・・・・・

 ざあああ、と青ざめるアリスに、金髪のアリスはにっこりと壮絶に可愛らしく笑って見せた。

「そう。私はあなたの理想を具現化した、あなた、よ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 信じられない。
 ここが夢の世界で、何でも夢が叶うのだというのなら、アリス自身が夢見た理想の姿になれば一番早いのに、どういうわけか、アリスの理想が独り立ちしている。
 独り立ちしてここでにこにこ笑っている。

「ねえ、オリジナルのアリス。どうかしら?私」
 呆然と立ち尽くすアリスに、彼女の理想を体現した方がくるりとその場で回って見せた。
 ふわっと揺れるネグリジェの裾。なびく髪。甘やかな香り。
「満足かしら?」
 くすっと笑って、下から見上げるエメラルドの瞳。
 がくがくとアリスは頷いた。

 完璧だ。
 完璧に、可愛い。

 思わず見惚れるアリスに、金髪のアリスは「それは良かったわ」とますますその笑みを深くした。

「なら、何も問題はなさそうね」
「・・・・・・・・・・・・・・・え?」
 自分の足首があれくらい細ければいいのに、と彼女の足元を見詰めていたアリスは、軽やかに言われた台詞に目を瞬いた。
 何も問題が無い?
「いや、問題ならあるでしょう」
「いいえ、無いわ。私はあなたの理想。あなたの思い描く最高のアリスでしょう?」
「・・・・・・・・・・・・・・・そう、だけど・・・・・」

 口ごもるアリスの肩に、金髪のアリスが手を置いた。

「なら、私がこれからアリスとして生きるから、あなたは消えて頂戴」


 え?


 にこにこ笑う金髪のアリスに、アリスがぎょっと目を見張った。
 どういう意味だ?
 消える?

「そう。あなたと私は同じ存在。同じ存在から生まれた者。オリジナルは今はあなたで、私はあなたの理想だけど、逆転しましょう、って言ってるの」
「ちょ、ちょっと待って、待って」
 慌てて彼女の手を振り払い、アリスは身を引いた。二人の間に、距離が出来る。
「逆転?オリジナル?・・・・・意味が判らないわ」
「簡単な事よ。私とあなたの存在価値が逆転するってこと。今まではあなたの方が強かった。だから私はあなたの中の想像でしかなかった。でも、この世界で、私は実体を得たの。あなたと渡り合える力よ?・・・・オリジナルのあなたと入れ替わる事が出来るのよ」
 嬉々として語る金髪のアリスに、アリスは眩暈がした。
 言っている事が理解できない。

 渡り合える?入れ替わる?

「百歩譲ってそれが可能だとして・・・・・」
 からからに干上がる喉でごくりと唾を呑みこんで、アリスは恐る恐る尋ねた。

「あなたと私が逆転したら、私はどうなるの?」
「あなたは想像になるの、アリス」
「・・・・・想像?」
「ええ。私の妄想の産物になるの」
 にこり、と桜色の唇が笑みの形になる。笑みの形に、歪む。

「ねえ、いいでしょう?私はあなたなんだから、別に構わないでしょう?」

 じわりじわりと不安がせり上がり、アリスは一歩近づく金髪のアリスから、じりっと離れた。

「私に頂戴?そうしたら、もっともっとあなたは幸せになれる」
 だって私はあなたの理想なのよ?

 可愛らしく小首を傾げ、うふふ、と楽しそうに笑う少女が、恐ろしい。アリスの中の本能が、生存の危機を訴える。
 ねえ、と手を伸ばされて、アリスは反射的に「嫌っ!」と振り払っていた。

「じょ、冗談じゃないわ!私はそんな風にはなりたくない!」
 拒絶し、己を抱きしめて睨みつけるアリスに、金髪のアリスは驚いたように目を瞬く。
「どうして?私はあなたの理想なのに?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「あなたなんか、何の価値も無いじゃない」

 ぎくん、と身体が軋んだ。


 まだ、悪意から言われた台詞ならよかった。
 傷つけるためだけに、放たれた言葉なら。

 だが、その台詞はただ本当に、ぽろりと漏れた本音で。

 アリスは、ひゅっと喉を鳴らして息を吸い込んだ。

「それは・・・・・」

 価値が有る?
 あるだろうか。
 今までの人生でどれくらい?
 どれくらいの人に必要とされてきた?

 思い出してみて。

 私が居なくなって、世界が終ると嘆く人が居るだろうか?

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 凍りつくアリスに、金髪のアリスは柔らかく笑って見せた。

「ね?私なら人生をやり直せる。先生だって気に入ってくれるかもしれないし、姉さんと妹ばかりがちやほやされるけど、これだけの美貌なら、みんな振り返ってくれるわ。私だって可愛くなる努力をする。欲しいものの為になら貪欲になっても良いのよ」
 魅力的な人生だと思わない?

 うふふ、と浮かれたように笑う金髪のアリスに、アリスは己の身体から力が抜けるのを感じた。

 その通りだった。
 なんせ彼女は、「こうだったら好かれるのに」と言う物全てを持っているのだ。
 アリスの理想が、そこに具現化している。

「・・・・・・・・・・・・・・・だけど」
 それって逃げている事にならないだろうか。
「・・・・・・・・・・さっすが私。難儀な性格ね」

 ふう、と溜息を吐く金髪のアリスに「だって」とアリスが顔を上げた。

「私は私で、人生を歩いてきたのよ。それを全部無かった事になんか出来ないわ」
「・・・・・・・・・・ま、そうよね」

 己の金髪を払い、アリスはソファにぽすん、と腰を下ろした。そのまま斜めに寝そべって「じゃあ、どうするの?」と気だるげにアリスを見上げる。

「それに、私たちは勇者だわ」
 この世界に対してしなくてはいけない事が有るでしょう?
「ああ、唯一の紅茶、ね?」
 眉を上げるアリスに、アリスがこくんと頷いた。
「それを遂行する方が先よ。幸いあなたはブラッド=デュプレに近しい場所に居るんだし」
 紅茶の場所を探るのにもってこ
「だったらゲームをしましょう!」

 アリスの提案を遮る形で、金髪のアリスがぱっと大輪の笑顔で起き上がった。ぽん、と両手を打ちつけて楽しそうに声を弾ませる。

「唯一の紅茶を見つけた方が、ホンモノのアリス、ていうのはどうかしら?」
「・・・・・・・・・・・・・・・え?」
「ブラッドが所有する世界に一つしかない、貴重な茶葉。それを先に見つけた方が、オリジナルのアリスになれる」
 いい案だと思わない?

 にっこりわらうアリスの提案に、アリスは「そんなの卑怯だわ!」と声を荒げた。

「あなたのほうがブラッド=デュプレに近いじゃない!私に不利よ!」
「どうして?ブラッドの傍に居るから有利とは限らないじゃない」
 私はこの部屋から自由に出られやしないのよ?

 肩をすくめるアリスに、うっとアリスは言葉に詰まる。

「それに、茶葉の在り処を知った所で、探しに行くチャンスが有るかどうかも判らない」
 一応、私は囚われの身ですからね?

 悩ましげに目蓋を伏せるアリスに、アリスはますます言葉を失う。
 でも、だからと言って、現在アリスには帽子屋との接点は何もない。かろうじて「アプリコットはブラッド=デュプレの愛人である」という接点が有るが、アリスはアリスで、アプリコットではないので、ばれたら殺される可能性の方が大きいのだ。
 それを判っているのだろうか。

 だが、金髪のアリスはお構いなしに「それで決定!」と嬉しそうに微笑むから。

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 根暗で後ろ向きなアリスは、明るく奔放なアリスに結局何も言えず、そのゲームに乗ってしまうのだった。







20101101