休日と休養
「んっ・・・・・」
徐々に意識を引き上げられて、アリスははっと目を開けた。がばりと起き上がり、そこが自分に与えられた部屋だと周囲を見渡して確認する。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
なんだか、凄い夢を見た気がする。
ゆっくりと思い出し、アリスは首まで赤くなるのを感じ、思わず毛布を引っ張り上げた。
「・・・・・・・・・・寒いんだが」
「ああ、ご、ごめんなさい」
慌てて引きあげた毛布を戻し、アリスは硬直した。
今・・・・・聞きたくも無い声を聞いた気がするのだが?
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「寒い」
「きゃあっ!?」
ぐるぐるとパニックを起こす脳内で、色んな事を考えていたアリスは、唐突に伸びてきた腕に絡め取られてベッドに引きずり込まれる。
二人分の体温で温かくなったそこに引きこまれ、ぎゅっと抱きしめられる。ふわりと香るのは一晩中己の身体にまとわりついていたそれで。
くらくらしながら、アリスは抱きしめる男の胸に額を押しあてた。
「あの・・・・・」
「んー?」
「・・・・・・・・・・・・・・・どこからが夢?」
「と、いうと?」
くすっと笑った男は、アリスの頬に掛る髪をゆっくりと払う。見えた耳と頬が真っ赤で、可愛らしさに思わずキスをする。
ひゃん、と声を上げてアリスが顔を上げた。
「私は別に何もしてないないよ?お嬢さん?」
「っ・・・・・」
嘘ばっかり。首や鎖骨には、この男が残したキスマークが有る筈だ。潤んだ瞳で睨みつけ、口をぱくぱくするアリスの唇を、ちゅっと塞いで、男はアリスを再びその腕に閉じ込めた。
「前の時間帯に、夜着姿の君が私の前に現れて・・・・・楽しいひと時をソファの上で過ごしたんだが、いささか寒くてね」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「君に与えた部屋が近かったなぁ、と思ったものだからベッドを借りただけだよ?」
いけしゃあしゃあとのたまう男に、アリスは奥歯を噛みしめる。
触られた感触を思い出し、ずくん、と身体に熱がともるが、それを無視してアリスは顔を上げた。
「・・・・・・・・・・他に何もしなかった?」
「しないよ?」
君は帽子屋、ブラッド=デュプレの女だからね。
くすくすわらう男に歯噛する。
強調するように言われた台詞だが、この男はもしかしたら、アリスがアプリコットではないと気付いているのかもしれない。
(アプリコットの経歴とか性格とか・・・・・とにかく早急に調べなくっちゃ)
もう手遅れな気がしないでもないが、もし自分がニセモノだと、帽子屋に報告でもされたら厄介だ。突然会いに来られても困るし。
そんな事を考えるアリスを、目を細めて観察した後、くすりと小さく笑った男が「さて、お嬢さん」と口調を変えて切り出した。
「私はこれから、どうしても外せない用があってね」
「え?」
見上げると、アリスを抱く男が、彼女の額に掛った髪を払う。そのまま、長く綺麗な指先がアリスの輪郭を辿って滑って行く。
「これから八時間帯ほど休みにしよう」
休息だよ。
「・・・・・・・・・・・・・・・でも、貴方は仕事なんでしょう?」
不意の休みなのだ。素直に喜んで貰っておけばいいものを、律儀にアリスはそう切り返していた。
「私は貴方の秘書なのよ?」
掠れた声で不服を唱えると、少し目を見張った男が、ふっと柔らかく微笑んだ。
「だったら、上司の命令にそむいてはいけないな」
「っ」
大きな掌が、アリスの両頬を包み、碧の瞳が、アリスの翡翠を覗き込む。
「君はこれから休日だよ、アプリコット。ああ、私の事は気にしなくていい。八時間帯も掛らないうちに済む用事だからね」
するっと男の腕がアリスの後頭部に回り、抱きこまれる。
「あ」
駄目、と拒否する為に開いた唇から、男の舌が容赦なく侵入してくる。
深く、混じり合う様なキスを繰り返すうちに、アリスの手から力が抜けた。
「・・・・・ベルガモット」
もっと、と圧し掛かる男の肩を、かろうじて押し返し、アリスはぼうっとした眼差しでベルガモットを見上げた。
目許が赤く、キスで濡れた唇が、誘うように吐息を繰り返している。
(まったく・・・・・)
苦笑し、ベルガモットは、涙の滲んだ目尻にキスを落とした。
「そんな顔をされては、理性が焼き切れてしまうよ?」
「・・・・・これでも一応、マフィアのボスの情婦ですから」
精一杯虚勢を張って言われた台詞に、ベルガモットは笑いだす。今更、イイオンナを演出しようとしても無理があると、判っているのだが何もそこまで大笑いしなくても良いではないか。
するっとベッドから、一つの温もりが失われ、むくれ掛っていたアリスは慌てて身を起こした。軽く羽織っているだけのシャツのボタンを止めて、ベルガモットは振り返った。
「次に会えるのを楽しみにしてるよ?お嬢さん?」
「あ・・・・・」
気を付けて、とか。いってらっしゃいませ、とか言うべきなのだろうか。
だが、そんなアリスに何も言わせず、男は踵を返して部屋から出て行ってしまった。
ぼうっと閉まったドアを見詰めた後、アリスはばふ、と敷布の上に倒れ込んだ。枕を抱きしめ、温もりが残る毛布をかぶってみる。
ふうわりと、ベルガモットの香りがして、アリスはぎゅっと目を閉じた。
なんてもったいない時間だったのだろう。
彼の腕の中で過ごしていたなんて、びっくりだ。
(ベルガモット・・・・・)
ますますきつく枕を抱きしめ、アリスはじんわりと滲んだ涙を誤魔化すように、大きく深呼吸をする。
膨らみそうになっている感情に、大慌てで蓋をする。
とにもかくにも、八時間帯ほど自由時間が出来たのだ。
これほど長い時間の休憩は、この世界に来てから初めてだ。
(とにかくエリオットに会わなくちゃ)
彼に頼んでいたアプリコットの履歴書をゲットし、そしてなんとかして金髪の勇者アリスを探し出さなくては。
ただ、この温もりが惜しくて。目を閉じて、徐々に冷えていく身体を寂しく思いながら、アリスはようやくその身をベッドの上に起こすのだった。
「え?居ないの?」
お久しぶりです〜お嬢様〜、と笑顔で迎え入れてくれた馴染みのメイドさんと、一通り再会(?)を喜んだ後、アリスはエリオットの所在を聞いてみた。
だが、どうやら彼はボスと一緒に仕事に出ているらしい。
(でもそっか・・・・・ベルガモットも出掛けるような案件に、エリオットが参加しないわけないものね・・・・・)
折角アプリコットの履歴書を見せてもらおうと思ったのに。
いくらか肩を落とすアリスを、しげしげと眺めていたメイドさんが、そーっと近づき、彼女の耳元に唇を寄せた。
「お嬢さま、なにかありました?」
「え?」
「首の所に赤い痕が」
「!?」
コンシーラーじゃ消えなかったか!!
慌てて首筋を抑え、「な、んでもな、い、の」とぎこちなく答えて、アリスはうろたえたままその場を後にする。
初々しすぎる反応を繰り返すアリスを見詰め、目を瞬いた後、馴染みのメイドさんは意味深な笑みを浮かべた。
それから、やってきた一人の使用人を手招きする。
「ねえねえ・・・・・お嬢さまって〜、やっぱり〜アプリコットさまじゃないのかしら〜?」
それに、使用人がにっこりと笑みを浮かべた。
「確かに〜色々初々しいですよね〜」
「そうですよね〜?」
「じゃあ〜アプリコットさまじゃないとして〜・・・・・ボスは〜何を考えているでしょうね〜?」
「さあ〜?」
「楽しい事には〜間違いないと思うけどな〜」
それから二人、顔を見合わせて笑いだすのだった。
そんな使用人とメイドさんの反応も知らないアリスは、真っ赤になって屋敷をうろついていた。
とにかく、鏡の有る所に行きたい。出来れば空いている部屋かなんかがいい。
だが、片っ端から開けるのも躊躇われ、更には人に会うのも恥ずかしくて、人気の無い方へ無い方へ歩き続けて、とうとう巨大な扉の前に来てしまった。
両開きの、大きなドア。
一目でこの屋敷の重要部分の扉だと判る作りに、アリスの背にどっと嫌な汗が流れた。
(もしかなくても・・・・・ブラッド=デュプレの部屋、かしら・・・・・)
どくんどくん、と心臓が跳ね上がる。
この休日中のもう一つの目的は、金髪のアリスに会う事だ。
彼女が今、どこで、何をしているのか。
生きているのだとしたら、きっと今ここに居る筈だ。
(・・・・・・・・・・・・・・・)
胸の前で、ぎゅっと両手を握りしめる。
ブラッドは今、出掛けている。それは、エリオットとベルガモットの行動が指し示す通りだ。ただ、ベルガモットは八時間帯も掛らないだろう、と言っていた。ということは、少なくとも予定より早く切り上げられる場合が有ると言う事で・・・・・。
チャンスは、もしかしたら彼らが出掛けて直ぐの、今しかないのかもしれない。
きょろきょろと辺りを見渡し、アリスはそっとその手を伸ばしてドアをノックしてみた。
耳を澄まして待つ事しばし。
何の反応も無い。
現在アリスはメイド服を着ていない。着ていれば掃除やなんやと理由を付けて潜入出来る筈だ。
(一度戻って着替えて・・・・・)
そう考えてドアに背を向けようとしたその時、不意にドアの軋む音がし、アリスは反射的に黒光りする重厚なドアを見遣った。
「・・・・・・・・・・・・・・・誰?」
か細い声がして、ゆっくりとドアが開く。
破裂しそうな勢いで鳴り響く、心臓の鼓動。その鼓動を耳の直ぐ傍に聞きながら、アリスは息を吸うのも忘れて、開くドアを見詰めた。
「・・・・・・・・・・あなた」
ゆっくりゆっくり開いたドアの向こうには、ピンクの猫や帽子の男の子が言った通り、ふわりと長い金髪の、色の白い少女が立っていた。
大きなエメラルドの瞳が、アリスを映す。白い素足にブルーのネグリジェ姿の彼女に、しかしアリスは見覚えが有った。
なんだろう?
どこで見たんだろう?
それに対して、大きく目を見張った金髪の少女は、やがてにやりと桜色の唇を吊り上げて笑った。
どきりとするような、意地の悪い笑み。
なんだか嫌な予感・・・・・そう、面倒事の予感がする。
咄嗟に後ずさる足に気付いて、金髪の少女が手を伸ばした。
「待っていたわ」
すうっと猫のようにアーモンド形の瞳を細めて、少女が鈴を振る様な声で囁いた。
「勇者アリス」
「・・・・・・・・・・・・・・・何故、それを・・・・・」
「来て頂戴」
「あ、あの!?」
ぐいっと腕を引っ張られ、アリスは図らずも少女に連れられて主の部屋へと足を踏み入れる事となった。
20101101