アプリコットとベルガモット




「いやですわ、こんなことも出来ないのかしら」
「これだから新人は」
「一体どういう教育を受けてきたのかしら。こんな作業内容でよく帽子屋屋敷のメイドなんかが務まりますわね」



 ・・・・・などという誹謗中傷が吹き荒れる職場なら良かったのに。


 何か仕事は有りませんか、と可愛らしい屋敷のメイド服に着替えて、意気揚々と控えの間にやってきたアリスだったが、ここで仕事を始めてから、それらしいことなど一度もした事が無かった。

「ああ、いいんですよ〜、お嬢さまは、ここで〜お皿を磨いていて下さればいいんですから〜」
「そうですそうです〜 お手が汚れては困ります〜」
「いや・・・・・汚れるも何も、私はここに雇われたメイドで・・・・・」
「はいはい〜わかってます〜」
「メイド、で雇われては居ますケド〜実際は〜ボスのお妾さんなんですよね〜」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 この屋敷の主はどんな色欲大魔神だ。

 どうやらエリオットが渡りに船だと言って用意してくれたメイドのポジションは、あろうことか帽子屋ファミリーのボスが市街地に抱えている馴染みの女のものだったらしい。

 どこかの企業の令嬢だとか、とある貴族の娘だとか、肩書きは本人を前にして言えるわけが無く、アリスはぼんやりとしかその「馴染みの女」がどういうものなのか理解していない。
 一説には、高級娼館のトップだったとも言われている。

(・・・・・・・・・・・・・・・あのボンクラウサギめっ)

 今日からお前はアプリコットな、と笑いながら告げるエリオットを締め殺したい。本当は履歴書なんかを見せてもらいたかったが、エリオットのような武闘派幹部は、そう言った書類の管理はノータッチらしい。
 そのうち機会が有れば持ってきてやるよ、と安請け合いされたが、この「アプリコットさん」が一体何者なのか、アリスは予測を立てることしか出来ないで居た。

 最初に言われた衝撃の事実がボスの妾。
 これには本当に参った。

 もしかしたら呼び出しがあるかもしれない。
 少なくともベッドを共にし、自分の屋敷に引きあげても構わない(メイドとしてだが)と判断した女を、間違える筈が無いだろう。
 だとしたら、どんな言い逃れも出来ない、と戦々恐々していたのだが、いまだにアリスはブラッド=デュプレと顔を合わせてもいなかった。
 それどころか、金髪のアリス、にも会えていない。

(お盛んなことで・・・・・)

 立場上、アリスがどうなっているのか、アリスには教えてもらえないが、何となく雰囲気で判る。前に一度「ブラッドさまはいつわたくしにあってくださるのかしら?」と鎌を掛けた事があったが、メイドたちは綺麗過ぎる笑顔を一様に浮かべて「ボスは今〜お忙しいそうで〜 おさびしいとは思いますが〜もう少々我慢なさってくださいね〜」と宣告されていた。

 彼の部屋がどこかも巧妙に隠されている。
 多分、アプリコットとアリスが出会うのを極力回避しているのだろう。

(それにしても・・・・・一回も顔を会わせないなんて・・・・・何をしてるのかしらね・・・・・)

 ボスが特別に引き上げた女、と言う事で、アリスはそれなりに自由に動ける。
 本当は仕事をしたいのだが、回ってくるのはキッチンでの作業ばかりで、部屋の清掃などは一切任されない。

 清掃されたら困る証拠品でもごろごろ出てくるのだろうか。

(もしかして・・・・・囲われてる女って山ほどいるのかしら?)


 どこのブロックに行くと、誰それに会うから、それを全て回避するように配置されてる、とか?

(馬鹿馬鹿しい・・・・・)


 アリスはあくまでアリスで、アプリコットではない。そう呼ばれてはいるが、ここの屋敷のボスと情を交わし、「愛してください」と切実にうたっているわけではないのだ。
 ただ、金髪勇者のアリスの存在は気になっていた。

 殺される事はないという。だが、どんな目に会っているのか。多分、自分とは違う世界の、違う国から連れてこられたアリスという名の少女なのだろう。

 可哀そうに・・・・・もしかしたら私がそうなっていたかもしれないが、私のミッションは紅茶の回収だから、まあ、概ね関係ないと言えば関係無いけど、同じ名前だし気になるのよね。

 廊下をモップを持って歩きながら、アリスはふうっと溜息を吐いた。

 ここから先には、螺旋階段がある。

 アリスの立ち入り禁止区域だ。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 アプリコットは馬鹿な女だと思う。

 どんな利害があったのか知らないが、複数の女を囲い込む様な男に入れこんで、なのに会いに来ないような男に身体を売り渡し、挙句の果てに、呼ばれたからとのこのこ屋敷までやってきて、門番にボスの大切な人だと判断されずに殺されてしまうなんて。

 馬鹿な女以外にどんな称号が似合うだろうか。

 そして、そんな馬鹿な女の人生を引き継いでいるアリスは、アプリコットさんの為に、意趣返しがしたい、と最近では思うようになっていた。

 情を交わし、引きあげた女に、別の女が出来たからと会いに来ない男。
 女も馬鹿だが、男は殺しても良いだろう。

(流石ラスボスね・・・・・)

 我儘、勝手気まま、女を食い物にするなんて許せない。

(女は快楽の道具じゃないっつーのっ!)

 アプリコットさんのためにも、ひいては自分の為にも、とアリスは立ち入り禁止区域の螺旋階段に足を踏み入れた。

 言い訳は完璧だ。

 わたくしはあの方を愛しています。毎夜、枕と身体を濡らす日々に耐えられず、こうして会いに行こうと行動することの何が悪いと言うのですか!?浅はかな女と罵っても構いません!わたくしは・・・・・あの方に一目お会いして・・・・・そして、引導を渡されるなりなんなりされたいのです!あの方になら殺されても構いません!!そのことを・・・・・お伝え下さいまし・・・・・


「よし!完璧」

 くるくる回る螺旋階段を、アリスは下に下に降りて行く。
 高い所にあるのが宝物なら、地中深くに眠るのは、秘密だ。
 宝も悪くないと思うが、やはり欲しいのは秘密なのだ。

(それに、紅茶狂いのマフィアのボスが、茶葉を隠しているのが怪しい地下室、ていうのも良いわよね)

 キッチンに配属されたアリスは、それとなく食糧庫や色んな場所の紅茶をチェックして回っていた。
 管理の仕方も教えてもらったし。
 大量に整理されて置かれていた茶缶には圧倒されたが、欲しいものはなかったように思える。
 当たり前だ。この世界に一つしかない茶葉だというのだから。

「やっぱり・・・・・そうなると・・・・・麻薬とかそう言うのと一緒に地下に隠されているのが一番だと思うのよね」
 湿度の管理が大変そうだけど、これだけの庭と屋敷を維持できる財力の持ち主だもの。それくらいなんとか出来るわよね。

 くるくる回る螺旋階段。どこまでもどこまでもどこまでもアリスは降りて行く。
 とんとんとんとんとんとんとんとん・・・・・
 くるくるくるくるくるくるくるくるくる・・・・・

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 息が上がり、苦しい。汗が頬を伝う。見栄の為に持っていたモップは今では杖代わりだ。
 一体どこまで下ると言うのだ。
 いい加減にして欲しい。

 ぜーはーぜーはー、と上がった呼吸を繰り返していると、不意にアリスの前にドアが現れた。
 木製の重厚なドア。
 壁に灯る灯の中で、それはちらりちらりと揺れて光り、不気味な感じを演出していた。
 どくんどくんと心臓が跳ねあがり、アリスはそっと、金色の鈍い光を放つ取っ手を握りしめた。
 ひんやりとした感触が掌に馴染み、力を込めるとゆっくりと開く。

 鍵は掛っていないらしい。

 そうっとそうっと押しあける。音も立てずに。

 そうしてうち開きに開いた扉の向こうは、明るい白い光の満ちた大きな部屋だった。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・わ」

 思わず息を呑みこむ。そこは首を傾げないと見えないほどの高さの天井と、その天井に向かって聳える本棚が立ち並ぶ部屋だった。沢山の本の背表紙がずらりと並ぶ姿は壮観で、アリスは声も出ない。
 天井はどうやらガラス張りのようで、暗い空に、星が輝いているのが見える。そこここに梯子が掛けられ、何層もの通路が完備されている。中央には階段。ソファがそこここに配置されているそこは、完全に図書館の様相を呈していた。

「凄い・・・・・」

 この屋敷にこんな所が有ったとは。

 ぽかんと、四方を眺め、どれだけの蔵書が有るのだろうかと胸を高鳴らせていると「おや?」という低い声が聞こえ、アリスははっと振り返った。

 赤いソファに一人の男が寝そべっていた。白いシャツに黒いスラックス。裸足の彼はゆっくりと起き上がると、眠そうな眼差しをアリスに注ぐ。
 はっと彼女は背筋を正した。

 この人は一体誰だろう?アリスが会った事のある幹部の中には居なかった筈だ。

「どうやってここに迷い込んできたんだ?」
 乱れた髪が顔に掛るのを、鬱陶しそうに掻き上げ、ゆっくりと男が立ちあがる。本の香りだけが立ち込める空間に、ふわりと甘い香りが漂った。

 近づく人影に、アリスは動けない。

 端正な顔立ち。整った鼻梁。鋭すぎる眼差しと、深く、底の見えない碧の瞳。
 そして、何よりもその存在を際立たせているのが、仕草だ。

 気だるげなのに、どこか隙が無く、怖い。
 色っぽく妖しく、目が離せない。

「質問に応えなさい」
 ぴたり、とアリスの前で歩を止めた男から、視線を引きはがせず、その碧の瞳に魅入られていると、不意に男が背を屈めた。
 吐息が掛る様な位置で見詰められる。
「君は口が利けないのか?それとも・・・・・質問に答える気がないのかな?」
 にいっと引き上がる薄い唇が近づき、アリスははっと身を強張らせると慌ててその肩を押しかえした。
「おや・・・・・残念」
「ご・・・・・ごめんなさい・・・・・あの・・・・・私、迷い込んでしまって・・・・・」
 彼と目が合ってから、止まっていた時間がようやく動き出す。かあっと顔が熱くなり、視線を逸らした今が一番恥ずかしい。
 身を捩り、背を向ける彼女を、面白そうに男が長い腕で絡め取った。
「迷い込んだ?ここに?・・・・・ふ〜ん?」
 その格好は、ここのメイドかな?
「っ」

 する、と首筋に結ばれたリボンを撫でられて、アリスの背中に衝撃が走る。そんな所を、男の人に触られた事などない。
「やっ」
「どこから来た?君は何者だ?何の目的があって、ここに紛れ込んだのかな?」
 くすくす笑いながら耳元で囁かれ、後ろから拘束されて、アリスはパニックになる。身体の中心に注ぎ込まれるような低音は、卑怯だ。甘いのに、どこまでも怖くて苦い。
「私はただのメイドですっ・・・・・本当に・・・・・迷い込んだだけで・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ふ〜ん?」
 腹を抱えていた男の手が、徐々に上に上がり、アリスの二つのふくらみの前で止まる。ざわり、と身体が震え、アリスは反射的に己の肘を相手に向かって振り降ろした。
「っと」

 笑いながら離れた男と、身体を抱きしめるアリス。

「何するのよ、この××××っ!!!」

 涙目で声を張り上げると、男がさもおかしそうに笑いだした。

「ここに入りこめるだけで十分に興味深いが・・・・・さらに、私の目を見て話せる上に、その威勢の良さ」
 くっくっく、と腹を抱えて笑う男に、アリスの頬に朱が差した。ようやく、からかわれているのだと気付いたからだ。

(落ちつけ・・・・・こんなのただの××××野郎よ)
 ぎゅっとモップを抱きしめて睨みつけていると、不意に身体を起こした男が「君の持ち場はどこだ?」と斜めに見下ろすようにアリスを見た。
「・・・・・・・・・・キッチン周りよ」
「・・・・・・・・・・名前は?」
「アプリコット」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 ちょっと目を見張り、それから男は楽しそうに笑った。

「そうか・・・・・君が噂のアプリコットか」
「噂?」
「ああ。君の事はよく知ってるよ。仕事をさせてくれとせがむ令嬢は初めて見たと、皆話していた」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 やっぱり変だったろうか。
 疑われている?と一瞬背筋が冷えるが、それよりも先に、近づく甘い香りにどきりとする。
 顎に指を掛けて持ち上げられ、アリスは間近に覗き込む男の碧を再び見る羽目になる。

「帽子屋の妾なのに、随分と腰が低いと、ね」
「煩いわね。別に腰の低い妾が居たって構わないでしょう?」
 その手を払い、アリスはじとっと男を睨みつけた。
「そうよ、私はこの屋敷のボスの妾なの。だから手を出そうなんて真似、しない方が良いわよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・肝に銘じるよ」

 可笑しそうに肩をすくめ、男はくるりと彼女に背を向けた。そのまま元居たソファに収まるのを見届け、アリスは改めて室内に視線をやる。
 追い出されるのかとちらちら男を確認するが、彼は「ボスの女」という肩書きを尊重してくれたのか、興味が失せたように本を取り上げて読んでいる。
 このままずっと時間を消費するのももったいないので、アリスは「ここは屋敷の図書室なの?」と声を掛けてみた。
「ああ。ボスの道楽で集められた本がここに全部ある」
「・・・・・・・・・・貴方はここで何をしてるの?」
「なんだと思う?」

 本から顔を上げることなく、口元を歪めて尋ねる男に、(嫌な奴)と感想を抱きながら、アリスは辺りを見渡した。

「・・・・・・・・・・もしかして、司書さん、とか?」
「誰も借りに来ないがね」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 だるそうな仕草で本を読む男に、アリスはむっとした。

「違うの?」
「私はただ、読んで管理をしているだけだよ」
 これだけの蔵書だ。分類するのも一苦労なんだよ、お嬢さん。
「全部読むの?」

 思わず身を乗り出すアリスに、男が本から顔を上げた。うわー、と目をきらきらさせるアリスに、すっとその碧の瞳を細める。
「そうだよ?」
「いーなー・・・・・」
 言ってしまってから、はっと口を押さえアリスは恐る恐る男を見た。彼は少し驚いたように彼女を見詰めていたが、やがてふわりと柔らかく微笑んだ。

(あれ・・・・・)
 さっき迫られたような、怖くて甘くて芯から溶かされるような雰囲気が身を潜めている。
「君は本が好きなのかな?」
「ええ」
 そもそもこの世界に放り込まれたのだって、本の所為なのだ。

 図書館で借りた一冊の本。表紙のタイトルも、背表紙のタイトルも掠れて見て取れず、「なんとかの国」としかかろうじて読めなかったその本に、非常に興味をそそられたのだ。

(その所為で碌でもない目に遭ってるけど・・・・・)
「ふーん・・・・・なあ、アプリコット」
「はい」

 そっと近くの棚に近寄り、どんな内容の本があるのかと眺めていると、不意に灯が陰ってアリスは緊張した。
 腕まくりされた両手が、本の背中に押しつけられて、二つの腕の間に挟まれる。ふわりと、甘い香りがして首筋に吐息を感じる。
 いつの間にこんなに接近してきたのか。

「君は仕事がしたいんだったね?」
「ええ」
「なら・・・・・キッチン周りは止めて、私の秘書をしないか?」
「え?」
 思わず顔を上げると、間近で男が笑っている。
「メイド長には私から話をしよう。ボスにも、了解をとるよ。どうかな?」
「秘書って・・・・・何をするの?」

 ぎゅっと胸の前で両手を握りしめて尋ねれば、男はにっこりと笑って見せた。眩しくて見ていられないような、完璧な笑顔だ。

「私と一緒に、未整理の本を読んで、整理してくれればいい」
「・・・・・・・・・・」
「ああ、難解な政治学の本だとか、哲学書の類は読まなくても良いよ?」
「何でも読むわ」
「そうか?・・・・・それらのインデックスの作成と、整理になるから、要点をまとめる必要が出てくる。それでも?」
「嫌いなジャンルを作りたくないの」

 挑戦的に見上げる翡翠の瞳に、男は楽しそうに笑った。

「気に入ったよ、アプリコット。君は今日から、私の秘書だ」
「っ」

 耳元に、唇を押しつけるような形で囁かれて、アリスは思わず目を閉じた。ぎゅっと胸元で手を握りしめる。震える肩をそっと撫でて、男は身体を離した。

「では、これから未整理の本の場所を教えるが・・・・・他に質問は?」
 両手をひらりと掲げて見せる男に、アリスはほっと息を吐いた。まだ胸がどきどきしている。

「貴方の名前を知りたいわ」
「名前?」
「・・・・・・・・・・上司の名前を知らないなんておかしな話でしょう?」
「それもそうだ」

 くすりと小さく笑い、それから男はゆっくりと目を細めた。

「私の名前は・・・・・そうだな、ベルガモットとでも呼んでもらおうかな?」





20101029