序章 



「どうかこの四つの世界の内、一つだけでも救ってはもらえませんか」

 いつものように本を開いただけなのに。

「お願いします!あなたしか居ないんです!」

 そりゃ、なんとなく・・・・・なんとなぁく、不思議な装丁の本だなぁとは思ったけど。

「あなただけにしか頼めないんですよ!」

 まさかそんな、ネバーエンディングストーリーのような事態に自分が陥るとは思ってもみないでしょう。普通。

「お願いします!僕の愛しいアリス!」

 あ、駄目だ。夢、決定。


「間に有ってます!!!!!」


 己の名前を正確に言い当てられた瞬間、アリス=リデルは開いたままだったその本を力一杯閉じた。
 そのまま、地面に押しつけてしっかりと両手で押さえる。ぎゅっと目を閉じて、アリスは「夢なら覚めろ〜今すぐ覚めろ〜現実主義の私が何堂々と白昼夢なんぞ見てんのよ、気持ち悪い」と呪詛かと思う様な低音で唱え出す。

 さわさわと、心地よい五月の風がアリスの金茶色の髪を撫でて行き、ふわりと花の香りが己の身体を包んでいく。時折混じる甘い匂いは日曜日に定番となった焼き立てスコーンの香りだ。

 日常。

 それを十分に堪能した後、そおっとアリスは目を開けて必死になって押さえていた本から両手をどけた。
 ゆっくりと分厚い革の表紙をめくる。


「だからお願いします!アリス!!!あなたにしか頼めないんですよ!!」


 現状、何も変わらず。

 ばん、ともう一度本を閉じようとして、アリスはぎょっと目を見開いた。

 本の一ページ目。光の加減で読みにくいが「なんとかの国」と書かれたタイトルの下に、ウサギ耳の男が描かれている。そのウサギ耳の男が、必死に「こちら」に手を伸ばして革表紙を抑えているのだ。
 閉じられてしまわないように。

「この本をあなたは開ける事が出来た!ということは、まぎれも無い勇者なんです!ああ、勇者アリス!!僕のアリス!!あなたを僕は一億と二千年前から愛して、八千年過ぎたころから恋しくなって待ちました!!待ち続けました!!ああ、アリス!アリス!!罪なアリすぎゅう」

 力一杯本を閉じて、アリスはがたがたとゆれる分厚い本に顔色を失くし、辺りを見渡す。とにかく縛るもの・・・・・何かで封印しなくては。

 こんなおかしな本を私はどうして借りてしまったのだろう。アリスのばかばか!今日と言う日を台無しにすることろだゾ☆

 取り敢えず本の上に正座をし、アリスはどうしたものか考え込む。まさか自分が呪われた本をチョイスしてしまうなんて、つくづく運が無い。
 アリスの姉なら、きっとこんなへまは一生しないに決まっている。
 これだから二番目は駄目なんだ。なんだっけ?ほら、何かの漫画に描いてあったわ。二番目の女の子は手を抜かれて育てられるとかなんとか・・・・・

 通常の思考からかけ離れた事を考え出しながら、アリスはぶんぶんと首を振る。とにかく、この本は焼却しよう。
 それしかない。
 封印出来ないのなら、燃やすしかないのだ。

 ばあやに頼んで燃やしてもらおう。

 そっと本の上から降りて、アリスはしっかりと表紙を抑えたままその本を持ち上げる。
 燃えるゴミの日はいつだったかしら?ええっと、次の火曜日?それともこれは紙ごみだから雑紙になる?もう、いっそブックオフのお世話になろうかしら。
 ていうか、シュレッダーがたしかお父さまの書斎に・・・・・

「何を恐ろしい事を考えているんですか!!!!」

 その次の瞬間、イタヅラな風がアリスの一瞬の隙を突き、手にしていた本のページをめくり上げる。
 大きく開いた本から、ウサギ耳の眼鏡をかけた、ちょっとインテリ風で神経質そうな男が身を乗り出してきた。

「ぎゃあああああああ、ヘンタイ!」
「淑女にあるまじき悲鳴がますます可愛らしいです、アリス」
 放り出された本が、庭の芝草の上に落ち、身を乗り出した青年が、がっしりとアリスの腕を掴んだ。

「さあ、行きますよ!我らが救世主!愛の戦士、アリス=リデル!」
 あなたにしか僕たちの世界は救えません!!!
「て、ちょっとまって、なに!?何する気!?って、いやああああああ」

 そのままインテリ風ウサ耳青年はアリスを本の中に引きずりこみ、あっという間に彼女を暗くて深い闇の中へと連れて行ってしまうのだった。






 勇者アリスよ。貴方はこの世界に選ばれました。
 選ばれたからには、この世界を平和にしてもらいます。

 ・・・・・と、いっても、貴方はただの女の子で、レベルもまあ、そこそこしかないので、全ての世界を救えとか、全部の人間を平和にしろとか、そんな大それたことは頼みません。

 僕が貴方に提示出来るのは、取り合えずこの中からどれかを達成してもらえればいいかなぁっていう物なんですけど、まあ、ぶっちゃけどれもしないで、僕と愛を語り合ってくれればそれで問題ないということなんですけど、それをやると、他の人からクレームがきちゃいそうですから、取り敢えず、どの国を救いますか?


「長い!!!!!」

 神秘的な雰囲気を演出しているのか、暗がりの中、光が明滅する空間に、アリスは居た。
 このどこかで、ウサ耳男がしゃべっているのか、エコーの掛った声がわんわんとこだましているのだが、長い所為で意味が取りにくい。

 全く、偉い目に有っている。

「私は帰りたいの!」
 駄目もとで闇に向かって叫んでみる。


 そうですか!やってくれますか!!ではあなたに選択肢を用意しました。


「聞けよ!!!!」
 かーえーりーたーいーのーっ!!!!

 声を大にして張り上げるが、あれだけ長い耳が有るのに、人の話は聞かないものである、がスタンスなのか絶対に答えない。
 代わりに、アリスに四つの選択肢が用意された。


 一つは横暴な首切り女王が統治する城からトランプ兵を助ける事。
 一つは凶悪な歌声の持ち主が統治する遊園地のアトラクションをもうちょっと危険度の低いものに改良する事。
 一つは吐血する夢魔が仕事をしないので、塔での仕事を夢魔にさせる事。
 一つは紅茶狂いのマフィアのボスから世界に一つしかない紅茶を取り戻す事。


 さ、どれがいいです?僕のお薦めは・・・・・そうですね、僕と一緒にここで永遠の愛を確かめ合う、ていうものなんですけど、どうでしょう?


「どれもごめんよ!!!!」
 ていうか、なんなのその世界選択!可笑しくない!?
「これのどこが世界を救う勇者の行動なのよ!?」

 そう言われましても・・・・・そういう内容なのでねぇ・・・・・

 ほう、と溜息交じりに言われ、アリスはこめかみに青筋を浮かべながら「とにかくどれもお断り!」ときっぱりと告げた。

「私は帰る!!帰るの!!!!」

 では、実力行使しか有りませんか。

 ほう、と更に溜息を吐かれて、アリスはぎくりと背を強張らせた。一体何をどう、行使されるのか。

「ちょ」
「この四冊の本を同時にあなたにぶつけます。そのうち一冊に多分吸い込まれると思うので、その世界での目的を達成させてください」
「はあ?!っていうか、ぶ、ぶつけるって、ちょ」

 まって、まって、ありえな――――!?



 すいません。これも、愛するあなたの為なんですよ?


 絶 対 違 う か ら っ !!!!


 明滅する光の奥から、四冊の本が同時にアリスめがけて吹っ飛んできて、慌てて彼女は頭を抱えてその場に蹲った。
 痛みが来るかと目を閉じる。

 だが、衝撃は一向に来ず。
 代わりに。

「っ!?」


 絶対に慣れない浮遊感が身を襲い、くらん、と視界が回転した直後、アリスは急激に意識を失ってしまったのである。



20101029