仄暗く咲く薔薇の紅





<補足情報> ブラッドのお家に住んでいるアリスさんと、ブラッドの部下のエリオット。エリオットはアリスの事は知ってるけど、アリスがブラッドと知り合いでブラッドのお家に住んでいるのを知らない設定です。
ブラッド→←アリス←エリオット推奨









 フラッシュバックする記憶。
 歩道橋から付き落とされるその瞬間、自分が誰と居たのか。思いだそうとしても、それは霞が掛っていて、なかなか思いだせなかったのに。

 程良く飲んだワインと、高揚した気分が手伝って、ふわりふわりと歩を進めていたアリスは、彼女を心配して振り返ったブラッドの、頬を掠めた車の灯に、身体が痺れたのだ。

 一瞬で音が遠くなり、脳裏に光が弾ける。

 ふわり、と柔らかく微笑んで、アリスに手を伸ばすのは、ブラッド。
 そのまま彼に駆け寄ろうとしたアリスを、笑ったままのブラッドは、階段の上から、ぽん、と後ろに向かって押したのだ。

 凍りつく時間。
 宙に投げ出される身体。
 衝撃を受けて、でも止まらない。

 一番下の段まで落ち、朱に染まった視界。

 近寄る影は・・・・・


「アリス!」
「!?」
 軽く肩を掴まれて揺さぶられ、アリスは我に返った。
 我に返って、身体が震えているのに気付いた。
「・・・・・・・・・・どうした?」
 怪訝な顔をする男を見上げて、アリスは怯えたように一歩後ずさった。
「アリス?」
 伸ばす手を振り払う。両腕で身体を抱いて、アリスは恐怖と不安と・・・・・微かな怒りが滲んだ眼差しで、ブラッドを見上げた。

 瞳に映る彼が、誰か判らない。

「アリ」
「貴方なの・・・・・?」
 彼の言葉をさえぎって、アリスが震えた声を出した。芯から冷えていく。
 はっきりと拒絶の滲んだ眼差しを見下ろし、ブラッドはすっと瞳の温度を無くす。構わずに、アリスは震える声で続けた。
「貴方・・・・・なの?私を・・・・・歩道橋から付き落として・・・・・」

 殺そうとしたのは。

 その単語が、喉に張り付いて出てこない。こくん、と喉を鳴らすアリスを見下ろしたまま、ブラッドは溜息を付いて、己の髪を掻きあげた。

「そうだと言ったら?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 身体の震えが止まらない。眩暈も耳鳴りも収まらない。
 どうして?
 なんで?
 貴方は記憶の無い私に、話してくれた。


 自分の家族を焼き殺した犯人を、私は探しているのだと。
 警察も当てにならないから、貴方の力を貸してほしいと自分を頼ってきたのだと。
 その中で、犯人に接触しすぎて、歩道橋から付き落とされて、殺されかかったと。

 それで記憶を無くしたのだとそう、ブラッドは言ってたじゃない。

 でも、違う?

 本当は・・・・・?


 アリスの記憶の底に有るのは、付き落とされる瞬間の、幸せな気持ちとそこから裏切られた絶望だけ。
 同じ過ちを、私は繰り返す。

 じっと見詰める碧の瞳。受け止めて、アリスは知らずに涙がこぼれるのを感じた。はっと男が目を見張った。

 信じてたのに。

 ブラッドが手を伸ばすより先に、アリスは声にならない、無色透明な悲鳴を上げて彼に背を向けて走り出した。







「アリスー・・・・・なあ、大丈夫か?」
「・・・・・・・・・・・・・・・ごめん、エリオット」
 ベッド、占領しちゃって。

 アリスがブラッドの事を信じられなくなり、家に帰らずにしばらく。その間、彼女はエリオットのアパートに身を寄せていた。彼とは、夕方の公園で色々話をしたり、たまに飲みに行ったりするだけの関係だったのに。
 エリオットは、何も言わずに泊めてくれている。
 何の仕事をしているのか知らないが、いつも忙しそうで、夜だって寝てる暇もないくらいなのに。

「いいって。あんたがちょっとでも元気になる方が先だ」
「・・・・・・・・・・うん」

 アリスは夢を見続けていた。

 家に火を掛けられる夢。助けられない夢。それから、付き落とされる夢。

 どれもアリスは覚えていないと言うのに、夢は容赦なくアリスを追い詰める。


 本当がなんなのか、思いだしたくても思いだせない。その焦りが更にアリスを追い詰めて、彼女は酷い有様だった。
 ベッドに膝を抱えて蹲り、明かりも付けず、気がつけば食事すら取っていない事もあるのだから、エリオットは心配で堪らなかった。
「ほら。これ、昼食用のにんじんサンド。作っといたから、必ず食えよ?」
 夜はさ、どっか行こうぜ。

 にこにこ笑うエリオットが、優しくて困る。

 仕事だから、と家を出ようとする彼のシャツを掴んで、アリスは申し訳なさでいっぱいのまま俯いて「いってらっしゃい」と告げる事しか出来なかった。




 それでも。

 エリオットの交じりっけのない優しさに触れても。
 彼がだんだんアリスに好意を寄せて行っても。

 アリスはただぼうっと窓の外を眺めたり、むやみに外を歩き回ったり、何かを掴みたくて必死な、気が狂いそうな毎日から脱却できずにいる。

 そして、無情にも心は、己に触れてアリスを翻弄する一人の男に向かって止められない。

 離れていれば居るだけ。
 苦しくなる。

 何故?どうして?殺そうとした・・・・・?

 聞くのが怖い。

 沈んだ顔をして、台所に立ち、エリオットの為に夕飯を作っていたアリスに、彼は気付けば手を伸ばしていた。

「っ」
 後ろから抱きしめられて、どこかぼんやりしていたアリスは我に返る。ぎゅっと抱きしめる腕の力に焦る。
 何故か判らないが、焦るのだ。
「アリス」
「・・・・・・・・・・」
 耳元で囁かれて、彼女は震えた。
「アリスっ」

 懇願するような響き。伸びた手が、アリスの顎を浚い、口付けが落ちてきた。
 荒っぽいそれに、アリスの身体が熱くなる。だが、それと同時に脳内がショートし、傾れ込んできた舌を、気付けば必死で押し返そうとしていた。

「んっ」
 エリオットの手に一層力が籠り、痛みが走る。瞬間、アリスは己を拘束する男の腕をつねり上げていた。

「っ」
 力が緩んだ瞬間、アリスはエリオットを振りほどき、逃げるようにして玄関まで後退した。

「アリスっ!」
 切ない響きを帯びた声がし、アリスは彼に背中を向けたまま小さく震えた。


 申し訳ない事をした。
 酷い事をした。
 優しさに付けこんだ。

 彼だって男で、私は女なのに。

「ごめんなさい・・・・・」
 掠れた声でそう告げて、アリスはぎゅっと己のエプロンの裾を握りしめた。
「・・・・・・・・・・・・・・アリスに好きな奴がいるのは知ってる」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 彼女の小さな背中から視線をそらして、エリオットは拳を握ったまま俯く。
「なあ、そいつは俺よりもいい男か?」
 掠れた声に、アリスは首を振った。

「全然・・・・・優しくないし、何考えてるのか判らないし、酷い事平気でするし・・・・・オンナノヒトだって沢山・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・最低な奴だな」
 呟くエリオットに、「でも」とアリスは涙の滲んだ声で告げた。
「でも・・・・・でも、ね」


 君は何も思い出さなくていい。ここに居ればいいんだよ。居て良いんだ、アリス。
 君が・・・・・苦しんで泣くなら、それを全部破壊してあげよう・・・・・だから、な?



「・・・・・・・・・・・・・・・ごめんね」
 ぼろぼろと涙を零して、アリスはちらと後ろに立つエリオットを振り返ると、ぎゅっと両手を握りしめた。
「でも大好きなの」


 そう告げてしまって、アリスは戻れない気がした。自分の家族を手に掛けた男かもしれないのに。
 アリスすらも殺そうとした男かもしれないのに。

 でも、彼は何も言わなかった。
 何も。


 彼に、殺されに行こう。


 悄然とした空気の漂う室内。アリスはエリオットの横を通り過ぎて、エプロンを脱ぎ棄てて鞄を取ると、彼の手を取った。

「今までありがとう」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なあ」
「?」
 ぎゅっとお別れの握手をすると、顔を上げたエリオットがへにゃっと笑った。
「俺たち、まだ・・・・・友達だよな?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 本当に、ありがとう。

 こくりと頷いて、アリスは踵を返し、その部屋から飛び出した。







 外は土砂降りの雨だった。

 彼の住まうマンションの前までたどり着き、オートロックのドアの前に立つ。傘なんか持っていなかったら、全身ずぶぬれで、寒い。
 かたかたと震えながら膝を抱えて蹲る。

 ブラッドもエリオットに負けないくらい忙しい。家に戻らない事もある。それでも、ブラッドに会うまでは帰らない覚悟を決めて、彼女は二時間ほど、ガラスのドアの前で待った。

 やがて、振り続ける銀色の雨の中、黒塗りの車が止まる。運転手がドアを開け、降り立ったのは全身黒ずくめの男。
 寒くてぼんやりした視線で、傘をさしてエントランスに向かってくる男を眺め、震え、冷たさに固まった身体を引き上げると、顔を上げた男と目が有った。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 ブラッドの傘に当たる雨の、乾いた音だけが辺りに響いている。
 無言で見詰め有っていると、不意にブラッドが動く。ガラス戸の前まで来て、アリスの横を通り抜ける。

「あの・・・・・」
 耐えきれず、アリスが声を掛けた。
「・・・・・・・・・・」
「ブラッド・・・・・」

 喉が嗄れて、声が出ない。白く冷たくなった手を握りしめて、アリスは目蓋の裏だけが熱く痛くなるのを感じながら、か細い声で切り出した。

「私・・・・・貴方に・・・・・」
 殺されに来たの。

 パネルを操作する、ブラッドの手が止まる。ゆっくりと振り返る男を見れない。
 己の濡れて冷たくなった靴のつま先を見詰めながら、アリスは酷く辛く、力の無い笑みを浮かべた。

「けど、その前に言わせて」

 雨の音が、夜の闇を埋め尽くしていく。

「私ね・・・・・」
 ゆっくりと顔を上げ、泣いているのがばれなければ良いと、霞んだ瞳に力を込めながら、アリスはふわりと笑った。
「貴方がどんなに酷い人でも・・・・・好きなの・・・・・」
 大好きなの。

 一筋だけ、冷たい雨とは違う温かな雫が頬を零れ落ち。アリスはしゃくりあげるのを堪えて、「それだけ」と付け加えた。

 貴方にとって、私が邪魔ものでも、構わない。
 私は引き返せない所まで堕ちてしまったのだから。
 貴方の嘘に、溺れても良いと思える程。


 力一杯唇をかみしめて、両手を握りしめ、アリスはその場から立ち去ろうとした。

 その冷えた身体を、ブラッドが引き寄せて力一杯抱きしめた。びくり、とアリスの身体が震える。

「・・・・・・・・・・・・・・・来なさい」
 帰ってきたんだろう?

 そっと耳元で囁かれて、アリスの身体に抗いがたい熱がともった。エリオットのそれとはまるで違う、熱量。
 普段はアリスよりも、体温が低いのに、芯まで冷えてしまったアリスには、ブラッドの体温は焼けるように熱かった。

「私も・・・・・」
 小さく震えるアリスを、己の腕に閉じ込めて、ブラッドはきつく首筋に吸いつく。小さな喘ぎ声と同時に、真白い肌に残る鮮やかな赤。
「君が好きだ」

 囁かれた台詞に、信じられないと瞳を大きくする彼女を抱き直して、ブラッドは口付けを落とした。

 深く深く深く。









 君に全てを話すのはまだ、後だ。
 だが、信じて欲しい。

 君を階段から突き落としたのは、私ではない。



「ん・・・・・」
 低い話し声が聞こえる。ぼうっとする頭がじょじょに覚醒し、アリスはゆっくりとベッドの上に起き上がった。
 数日間使っていたのと違う、アリスの身に馴染んでしまった家主のベッド。彼の香りがする毛布を知らずに抱きしめて、アリスは薄暗い部屋を見わたした。

 先ほどまで、アリスを己の熱で暖めていた男は居ない。代わりに、ほんのわずか開いた隙間から声が聞こえてくる。

(お客さん・・・・・?)

 こんな時間に?

 まだ、頭の芯が眠っている。ブラッドの香りがする毛布を身体に巻き直して、アリスはぽふっとベッドに倒れ込んだ。
「ブラッド・・・・・」
 小さな声で呼んでみる。誰が来ているのか知らないが、早く戻ってきて欲しい。

 一人では寒いじゃないか。

 アリスの体温はほぼブラッドと同じで、だから、彼が居ないと熱量が半分になった気がするのだ。

 もしかして女の人が訪ねてきたのかと、一瞬そんな景色が脳裏をよぎるが、どうにも艶っぽい雰囲気がしてこない。
 抑えられているが、聞こえてくるブラッドの声は幾分げんなりしているようだし、苛立っても居る。

(ブラッド・・・・・)

 そんなに苛々するんなら、こっちに戻ってきて。お客さまなんか、帰しちゃってよ・・・・・


 散々己を律した反動が、眠いアリスは甘ったるい言葉をぽんぽん捻りだす。
 そんな風に、ブラッドが望んでやまない、甘ったるいアリスがドア一枚隔てた向こうに居ると言うのに、ブラッドはそこに行けないで居た。

 何故なら、酔っ払って酩酊している己の相棒が、ド深夜に押しかけてきたからだ。


「な〜〜〜〜〜〜俺もう〜〜〜〜立ち直れねぇ〜〜よ〜〜〜〜」
「・・・・・・・・・・・・・・・もうやめてくれないか、エリオット」
 彼はつい先ほど、振られたらしい。

 随分と御執心だったのは、彼がなんとか定時で仕事を切り上げようと、珍しく張りきっている姿を見ているから知っている。
 そんなかいがいしい男を振るとは、大した女だと興味もわくが、いかんせん、今はそれよりも自分が愛してやまない女が、ようやく戻ってきた所なのだ。

 散々抱いたが、足りない。
 二桁くらいは抱いておきたい。

 まるでガキだな、と思うが、彼女がどこにいるのかさっぱりわからなかったここ数週間を思えば当然だ。

 なのに、何が哀しくて振られた男の愚痴を聞かなければならないのだ。

「だってよ〜・・・・・だって・・・・・あんな可愛くて・・・・・優しくて、イイオンナ、そう居ないんだよ〜・・・・・なのに・・・・・なのにっ」
 俺なんかよりも全然劣ってる奴が好きだっていうんだぜ!?
「ほー・・・・・」

 ウザイ。うざい事この上ない。

「お前より劣ってる男、ねぇ・・・・・私にしてみればこんな真夜中にやってくるお前の神経がしれない」
「だって、一生の恋だったかもしれないんだぜ!?」
 ブラッドはもてるからそんな風にいえんだよー!!
「お前もそこそこモテるだろ」
 半眼で切り返せば、「惚れた女一人捕まえられないなんて、俺は草食系男子なんだよー」と訳のわからない理屈を掲げてくる。

「草食系・・・・・ね・・・・・」
 なんとなく思い当たる節が有るが、ここは敢えて言わない。

「確かにお前は動物っぽい・・・・・哀れな所があるな。哀れで愚かな所が」
「でも、手ぇ出さなかったんだぜ!?」
 偉くね!?
「・・・・・・・・・・・・・・・そこが嫌われたんじゃないのか?」
「ええええ!?」
 そ、そうなの!?

 ひた、とブラッドを見詰める眼差しが、大きく見開かれている。

「本当に欲しいなら、相手の事情も理由も考えずに、さっさと奪ってしまえばいいだろう。二、三発やれば相手も諦めて大人しくなるだろうさ」
「・・・・・・・・・・・・・・・そうかな」
「ああそうだ」
「でも、それって、酷くね?」
「知らん」

 それより、お前の方が酷い。

 付けくわえ、説教の一つもしようかというブラッドに、「それじゃあ、アイツの好きな男と一緒だろ!?」とエリオットがぐいーっと「にんじんテキーラ」を飲みほして、だん、とグラスを置く。

「そんな酷い男が趣味なんだから、それくらいしても問題ないだろう」
「うっ」
「大体その男?それほど女性に酷い奴なら、彼女の方から愛想を付かせて逃げてくるかもしれないだろ?実際、そうやってお前の家に転がり込んだんじゃないのか?」
「・・・・・・・・・・そーなんだけどよ〜〜〜〜」
「なんなら、その男を殺してしまうくらいの気概が欲しいところだな」
 私ならそうする。

 きっぱりと言い切り、剣呑な眼差しをエリオットに送った。

「確かに・・・・・流石ブラッドだよな!そうだよな!アイツが幸せになれないのは目に見えてるから、そのどうしようもねぇ男は俺が消してやればいいんだな!」
「ああそうだ。お前が賢いウサ・・・・・いや、草食系男子でよかったよ」
「そうか・・・・・判った。とにかく俺、アイツが好きな男を探し出して抹殺するな!」
「ああよかった。お前が生きる目標を見つけてくれて助かったよ。なんなら私も力を貸そう。今すぐ、社に戻って調査してこい。そして取り敢えず明後日まで私の前に現れるな。しっかり調査するんだぞ?」
「ブラッド・・・・・」

 あんたって、ほんっっと良い奴だな!!!
 尊敬する!!!!俺の最高の上司だ!!!!!


 もろ手を挙げて飛びついてくる2を適当にいなし(ひそかに腹部に打撃を加えたりしながら)、ようやく追い返して、ブラッドは寝室に取って返す。

 すやすやと寝息を立てているアリスの髪に指をくぐらせて、ブラッドはそっと額にキスを落とした。

「お嬢さん・・・・・」
「んっ・・・・・ブラッド?・・・・・お客さんは?」
「帰した」
「そう・・・・・」

 じゃあ、と眠そうなまま両腕を投げかけてくる彼女を抱きしめて、ブラッドは彼女の髪に顔を埋めた。

「どんなお客さまだったの?こんな時間に・・・・・」
「ん?」

 ああ、単なる・・・・・失恋した男だよ。

「ふーん・・・・・」
 すり、と身体を擦り寄せる彼女を抱きしめて、以降、二人の間に言葉による会話は不成立となった。








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