深夜のお茶会







 自分にとって、その存在は特にどうこう言うようなものではなかった。
 ある日突然現れて、一緒に生活を始め、自分の妹になるのだとそう告げられただけの存在。

 一つ屋根の下に居るのだから、それなりにすれ違う事もあるが、彼女はまだ小さいし、自分も「妹」などという得体のしれない存在に振り回されるほど暇では無かった。
 それになにより、面倒な事に関わり合いになりたくない、というのが正直な感想。

 血のつながらない、曰くのある、ある日突然「妹」になった子供になど、関わらないに越したことはないだろう。


 やや大人びて、割と神経質な少年である彼は、そんな風に考えて、自分の「妹」とは距離をおいていた。
 それが、少年の日常で、それを貫き通す筈だったのだ。




「退屈だ・・・・・」
 ブラッド=デュプレはそう呟いて、「奪い取った」部室の一つのソファに寝そべっていた。
 学園を取り仕切っている「生徒会」。その組織と対立している「裏」のトップに立つその生徒は、歴代の「裏」のトップのなかでも最年少だった。
 入学早々、三年のトップだった男を倒し、彼が作り上げていた裏の組織を全て排除。自分の息の掛った者を集めてまとめ、その年の五月には彼は完全にこの学園の事実上トップに立つ事となった。

 頭脳明晰、運動神経も抜群。素行も悪くない為、先生からも一目置かれ、生徒会にも自分の信者を置いているなど、どこにも敵が無い状況を作り上げたお陰で、彼の高校生活はどう考えても波乱と程遠いものになっている。

 だがそれが、かえって彼の最大の敵である「退屈」を煽る原因となっていた。

「ブラッドー、例の連中が顔出せって来てるけど、どうする?」
「あ?」
 初夏の心地よい、緑の風が吹き込む、部活棟最上階のその部屋で、だらしなく本を片手に寝そべっていたブラッドは、ノックもそこそこに部屋に飛び込んできたオレンジ色の髪の男に、片目を開けた。
「この辺り一帯を取り仕切ってる自分達に挨拶も無しとはうんたらかんたら、って長げぇ口上垂れてたからよ、一発ぶん殴って門の所に寝かせてあんだけど、どうする?」
「どうもこうも無い。捨て置け」
「あ、そ」
 で、こっちが近々ここに攻めてこようとしてる連中の名簿な。
 ぽん、と目の前に置かれたクリアファイルに、ブラッドは溜息をつく。
「エリオット・・・・・私は別にこの地域一帯を治めるつもりはないんだぞ?」
「ああ、だるいもんな」
 にこにこ笑うエリオットに、ブラッドはうんざりしたように目を閉じる。
「ケド、攻めてくるって言ってんのに、なんにもしねぇわけにはいかねぇだろ?」
 一つだけ年上の、エリオットと呼ばれた青年がにこにこ笑う。呻くようにブラッドが溜息を零した。
「だるい・・・・・お前がなんとかしてこい」
「潰して良いのか?」
「ああ・・・・・くれぐれも、面倒は起こすなよ?」
「分かってるって。五名ほど借りてくな」
 嬉しそうにブレザーの裾を翻して、勇んで出ていく腹心に、ブラッドは頭痛がした。

 嫌な予感しかしない。

 放っておけと言ったが、せめて、校門傍で強制的に寝かされているという連中をどうにかしないと。
 警察や救急車を呼ばれては面倒な事極まりない。

 ふわりと、良い香りのする風が吹き込み、ブラッドは一瞬それすらも全部「部下」に押し付けて自分は昼寝をしてしまおうかと考える。だが、やっぱり事後処理はきっちりした方が、事を穏便に済ませる事が出来ると知っていだけに、重い身体を引き起こすと、ブラッドはゆっくりと部屋から抜け出した。
 階段を降りながら、そう言った「事後処理」をきっちりできる「掃除屋」を育てなくてはいけないかな、などとぼんやり考えながら。




「ここに、おにいちゃんがいるんですけど、しりませんか?」
「お兄ちゃん?」
 女生徒の一人が首を傾げる。はい、と頷く少女は、頭にブルーのリボンを付けた可愛らしい少女だった。
 ちまい手足に、裾が長い桜色のジャンパースカート。ふわっと膨らんだ袖。首のリボンがひらひらと初夏の風になびく彼女は、お人形のようで、周りに集まってくる高校生の目が釘付けになっていた。
「お兄ちゃんのお名前、分かりますか?」
 軽く膝を折って話掛ける女子高生に、「えっとね」と少女がこてんと首を傾げた。

「ぶらっど=でゅぷれっていうんですけど」

 その瞬間、可愛い少女を取り巻いていた高校生の空気がひきん、と凍りついた。



 低いうめき声を上げて、「吹っ飛ばされた」男が壁に激突する。
 これで三人目。
 ナントカとかいう組織から、「お使い」を頼まれた全員が、エリオットに殴られた挙句、ブラッドにぼこられた形になる。

(こいつらは、組織の下っ端か・・・・・)

 マフィアとつながりのある、息が掛ったもので構成された若者の集団。最近彼らが台頭しているとは知っていたが、こんな小物を寄こして「勧誘」してくるとは自分も安く見られたものだ。
 肋を折ってやった連中を見下し、ブラッドは倒れ込む茶髪の一人の顎に、足を掛けて持ち上げた。

「で?こんな風な『挨拶』しか出来ないお前たちのボスはどこに居る?」
「・・・・・・・・・・っ」
 口の端から血を滴らせ、目蓋の腫れあがった男の身体が小刻みに震えている。
「言えば、今から救急車でも呼んでやるぞ?」
 痛いのは嫌だろう?

 ぞっとするほど冷たく笑う男に、茶髪の男は震えあがった。
 コイツはヤバい、と本能が告げる。

 自分は殺しというものがどういうものか知っている。
 人を殺す、ということがどういう事なのかも。

 だが、目の前にいる男は、それを十分すぎるほど知っていて、だからこそ、「そうならない、最大限の苦痛」すらも知っているような気がしたのだ。
 瞳に宿る銀色の光りが、それを物語っていて。

 震える唇が言葉を紡ぐ。

「・・・・・なるほどね」
 がんっ、とその顎を蹴り上げて、ブラッドはふむっと顎に指を当てて考え込んだ。

 出てきた名前は、恐らく彼らの集団のトップだろう。だが、そのトップはこの辺りのマフィアの構成員だったはずだ。
 つまり、連中の一番上に居るのは。
(・・・・・・・・・・・・・・・)
 この地域一帯を取り仕切る者の影が見えてきた気がする。
 しばらく考え込み、やがてうめき声に我に返ったブラッドは、携帯で部下を呼ぶとぼこられた彼らを移動させて、そこで警察と救急車を呼ぶように手配する。
 名目はありきたりに喧嘩。
 自分たちの名前を出すようなことになったら、その時はただじゃおかない、と念を押して、ようやくひと段落ついたかと、ブラッドは溜息を吐いた。
(さて・・・・・次はどう出てくるか・・・・・)
 今回の件が、どんなふうに作用するのか。待つのも悪くない。
 その間、適当に誰かを誘って出掛けるか、なんて事を考えていると、不意に彼の携帯が再び鳴った。

 その内容は、今までの出来事とは百八十度違う内容で、ブラッドは片頬を引きつらせて自分の「部屋」でもある例の部室へと大急ぎで向かうのだった。





「・・・・・・・・・・アリス」
「おじゃましてます」
 ぺこり、と頭を下げる栗色の髪の少女に、ブラッドは苦いものでも噛んだ様に渋面を作った。
 ボスの妹さんですって〜、とひそひそ会話を続ける部下を追い出し、ブラッドはつかつかと歩み寄ると、ソファにお行儀よく座り、貰ったクッキーを齧る少女の隣に腰を下ろした。

 アリス=デュプレ。

 五歳より幼いころの記憶が無い、突然ブラッドの妹になった少女。

 ブラッドを兄だと信じている、厄介な存在だ。

「一人で来たのか?」
 姉貴は?

 とにかく落ちつけ、と自分で紅茶を淹れながら訊けば、アリスはふるふると首を振った。

「おねえちゃん、きょうはかえらないことにしたから、おにいちゃんといっしょにいなさいって」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 男だな、とブラッドは飴色の紅茶を眺めて不機嫌そうに考える。
 厄介事を押しつけてきたな、と普段、アリスの事全てを姉に任せきりの弟は、自分の事を棚に上げて罵る。

「一人で来たのか?」
「うん」
「・・・・・・・・・・」
 ブラッドの紅茶を興味深そうに、翡翠の瞳が見詰めている。
「飲むか?」
 カップを分かりやすく持ち上げて見せれば、ぱっとアリスの顔が輝いた。
「のむ!」
「言っておくがな、ミルクだの砂糖だの追加したら許さな」
「にがい」
「言ってる傍から砂糖を足すなっ!」
 自ら注いでやったカップを両手で持ち、一口飲んで零したアリスが、どばどばと大量に砂糖を入れるのに頭を抱えながら、姉貴は一体コイツにどういう紅茶を飲ませて来たんだと、目に見えて不機嫌になる。
 不機嫌なブラッドなど、この学園では一、二を争うほど「警戒」に値するものだが、アリスはそんなことなどどこ吹く風で、「ありす、おなかすいた」とブラッドの膝に手を置いて、身を乗り出した。
「はやくかえろ」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 一人で帰れ、という言葉が喉元まで出かかる。タクシー代でもなんでも渡して、この存在を厄介払いしたい。
 だが、それをやれば、確実にアリスを溺愛している姉に殺されるだろう。

 ブラッドは脳裏に天秤を描き、厄介事代表のアリスと、先ほど口を割らせたマフィアのボスの名前を天秤に掛けた。

 下っ端の怪我くらいで、彼らが動きだすとは思えない。
 思えないが、自分なら、たった一人の高校生がそんなことを成し遂げたとしたら、どんな存在なのかと興味を持つ。

「・・・・・・・・・・・・・・・」
 詰まらない妹のお守よりも、マフィアのボスと渡り合う方が面白そうだ。
 それに。

「おにいちゃん?」
「ああ。だが、私も少し用事があるから・・・・・そうだな、私が帰るまでエリオットと一緒に居なさい」
「・・・・・えりおっと?」
 こてん、と首を傾げる少女に、ブラッドはふわりと柔らかく笑って見せた。
「ああ、彼は良い奴だよ」
 オレンジ色のものさえ勧めなければな。

 投げやりに付けたされた言葉に、更にアリスが反対方向に首を傾げる。

「そのえりおっとはいつくるの?」
 夏の夕暮れは長い。それでも、空がオレンジ色に燃えている。ちらりとそちらを眺めて、ブラッドは名簿に有る連中を「叩き」に行った彼の能力がどれくらいなものか考え込んだ。
「さあ・・・・・もうそろそろ戻ってきても良い頃合いだが・・・・・」
「ありす、おなかすいた」
「・・・・・菓子じゃ足りないか?」
 むーっと頬を膨らませるアリスに、その辺にある、割と高級なクッキーやらチョコレートを目の前に積んで見せるが、彼女はふるふると首を振った。
「おやつのじかんはおわったもの。ごはんがいい」
「ご飯って・・・・・」
「おねえちゃんがいっつもいうもん。ごはんのまえにおかしはだめだぞって」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 妙な所で妙に常識的な躾をしているとは、とブラッドは呆れかえり、仕方ないと溜息を吐いた。

「なら、その辺のファミレスでも行くか?」
「いくっ!」
 ぱっと顔を輝かせるアリスに、ブラッドはちょっと意外そうに目を見張った。
 この妹はあまりブラッドに懐かない。ブラッド自体が彼女を避けている、というのもあるが、二人で食卓を囲んでも何一つ楽しい事など無かった気がする。
 だが、今日の少女は妙に楽しそうだった。
「ありす、しちゅーはんばーぐがいい!」
 ぴょい、とソファから飛び降りる少女の笑顔に、ブラッドはほんの少し絆されて恭しくお辞儀をして見せた。
「では、仰せのままに」




 はんばーぐ、はんばーぐ、と小声で歌うアリスの向かいに座り、ブラッドは適当にアイスティーを頼んで頬杖を付いた。
 ガラス張りの窓が直ぐ横にあるその席は、エリオットが来たら直ぐに分かるようになっている。
 彼には先ほど電話をして、適当に切り上げてアリスの面倒をみてくれ、と頼んである。
 しばらくすれば、走って戻ってくる彼に行きあたるだろう。
(それよりも・・・・・連中がどう動くかだな・・・・・)
 面目を潰された連中のトップが、何かをしかけてくるのが先だろう。
 街の嫌われ者集団の、血気盛んな若者連中と考え方が一緒なら、恐らく、その集団のトップたる構成員はブラッドの所在を突き止めて乗り込んでくる筈だ。
 だがもし、己のマフィアとしてのプライドを優先するのなら、ブラッドの自宅に火でも掛けてくるだろう。
 もしくはブラッドの身内を攻撃してくるか。
(姉貴に関しては微塵も心配はいらないな・・・・・)
 多分、連中を返り討ちにして骨までしゃぶる気だろう。問題はこちらだ。

 鉄板に乗ってじゅうじゅうと美味しそうな音を立てるハンバーグには、たっぷりとデミグラスソースが掛っている。
 嬉しそうにフォークを握るアリスを、ブラッドはぼんやりと眺めた。

 そう言えば、ちゃんと彼女と向き合うのは初めてかもしれない。

 ただの栗色かと思っていた肩より少し長い髪は、窓から差し込む夕日を受けて、きらきらと金色の輝いている。ワンポイントでハートのマークがついたリボンが頭のてっぺんで結ばれていた。
「姉貴に買ってもらったのか?」
 空色のリボンを眺めながら言えば、アリスは「うん?」とプレートから顔を上げた。
「リボン」
「わかんない」
 ふるっとアリスが首を振る。さらり、と彼女の柔らかな髪が揺れ、アリスの翡翠色の瞳が陰った。
「ありす、なんにもおぼえてないから」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 はっとブラッドが緑の瞳を見開いた。だが、それに気付いた様子もなく、アリスは握りしめたナイフを器用に使いながらハンバーグを切り分けた。
「でもね、おねえちゃんがそのりぼんはありすのだいじなものだから、たいせつにしなさいって」
「・・・・・そうか」
「でも、ありす、あおよりぴんくがすきなの」
 はむ、とハンバーグを頬張るアリスが、真剣な顔でブラッドを見た。
 翡翠の瞳が、まっすぐにブラッドを映す。不躾な視線な筈だが、どういうわけだか、ブラッドは嫌ではなかった。
 白く、幼いラインが残る丸い頬。薔薇色が刺すそこに、デミグラスソースがついていて、ブラッドは小さく笑うと指先で拭ってやった。
「ついてるぞ、お嬢さん」
「ん」
 ぐい、と頬っぺたを押され、半分目を閉じるアリスが、妙に可愛く見えて、ブラッドはそのまま意地悪く頬っぺたをふにふにした。
「やー」
「こんなにもちもちしてては、狼に食われるかもな」
 小動物のようだ、と笑いながら言えば、アリスはきょとんと眼を丸くした。
「おおかみさん、いるの?」
「さあ、どうかな?」
「えー・・・・・おしえてよ!」
「どうしようかな?」
 くすくす笑うブラッドが、物珍しくて、アリスはじっと兄を見詰める。

 アリスにとって、自分の兄は怖くて近寄りがたい存在だった。
 嫌われているんじゃないかと、そう幼いながらに思うほどに。
 だが、今日のブラッドはなんだか暖かくて心地良い。

 ぺろっとソースを舐めるブラッドに、アリスはじっと自分のハンバーグを見詰めた。
「おにいちゃん、たべないの?」
 彼の手元にはアイスティーのグラスしかない。それも「ちゅうしゅつじかんがどうのこうの」で半分以上残っている。
 自分ばっかり食べている事に気付いて、そう告げるアリスに、ブラッドは「ああ」とあっさり答えた。
「今は特に要らないな」
「あとからたべる?」
「そうだな・・・・・」
 これから先、どうしようか。エリオットとご飯を食べに行けば恐らく、にんじんまみれになるだろう。それだけは避けない。
「あ、あのね」
 そんな兄の様子に、これはチャンスかもしれない、とアリスはフォークを握りしめたまま思い切って切り出してみた。
「おにーちゃん・・・・・あのね、ありすね」
「ブラッドー!」
 その瞬間、ドアベルが鳴るのとほぼ同時に、店内の人間全員が注目するような大音量が響き、ブラッドは頭痛がした。
 見れば巨大な影がずかずかと近づいてくるのが見えた。
「連中、取り敢えず潰してきたから、多分襲撃はないと思うぜ!あと、アリスって誰だ?お前の新しい女か?」
「違う」
 即答し、ブラッドはちょいっと自分の向かいに座る少女を指差した。
「彼女だ」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「はじめまして。ありすです」
 オレンジ色のふわふわの髪を、興味深そうに見上げるアリスに、エリオットは目を瞬いた後、真剣な表情でブラッドを見詰めた。
「ブラッド・・・・・いくらなんでも犯罪じゃねぇか?」
「彼女は私の妹だ、変な誤解をするな!」




「妹が居たなんて知らなかったな・・・・・へぇ、あんた、アリスってんだ」
 俺はエリオット。よろしくな。
 店から出て、にっこり笑うお兄さんに、最初怖い人なのかな、と思っていたアリスは警戒を緩めてぺこりと頭を下げた。
 辺りはすっかり暗くなっている。このままアリスを連れてお前は待機していろと、ブラッドが命を下すより先に、不意に三人が立つ歩道の横に一台の車が止まった。

 スモークが張られた、黒塗りの車。
 はっと緊張する二人とは逆に、アリスが興味深そうな眼差しを送った。

「エリオット」
「ああ、分かってる」
 たったそれだけでやりとりをする二人の目の前で、ゆっくりと車のウインドーが降り、目深に帽子をかぶった男が視界に飛び込んできた。
 このご時世、シルクハットなんて被っている、酔狂な人物に、ブラッドは心当たりが有った。
「はじめまして。君が、ブラッド=デュプレかな?」
 意外と若い声がして、ちらと視線が持ち上がる。きらきらひかる金色の髪の下に、アイスブルーの瞳が見え隠れする。きちんとスーツを着こなしているこの男こそが、ブラッドが興味を持った「帽子屋」と呼ばれるマフィアのボスだった。
「僕の事は・・・・・御存じみたいだね」
 にっこりと笑う口元。声も穏やかだが、端々に冷たく突き刺さる様なものが滲んでいる。すっと目を細めブラッドは一歩前に出た。
「はじめまして。あなたのお噂は十分に存じ上げております」
 丁重にお辞儀をして見せる青年に、帽子屋は目を細めた。
「話がしたいんだけど、良いかな?」
「・・・・・・・・・・」
 すっとブラッドが手を挙げる。その瞬間、エリオットがアリスを荷物のように担ぎあげた。
 それを合図にするように、一斉にブラッドの「部下」が車に飛び込んでいく。応戦するように帽子屋の車から黒服が飛び出し、一瞬で辺りは乱闘の様相を呈した。
 閉まる車の窓の向こうで、帽子屋とブラッドの視線がぶつかった。

 彼は本当に楽しそうにブラッドを見やり、ブラッドもまた、薄く笑みを浮かべたまま彼を見詰めている。

「・・・・・・・・・・興味はない、ということか」
「はい?」
 己のボスの、ぽつりと漏らした台詞に、運転手が振り返る。それに、帽子屋は「いや」と目を伏せた。
「彼なら、と思ったんだけど、彼はどうやら興味が無いらしい」
 残念だ。

 肩をすくめるボスに、「どうしますか?」と隣に座る腹心が尋ねた。
 邪魔になるようなら排除します、と真顔で告げる男に、帽子屋は小さく笑う。

「邪魔になるようなら、ね。けど・・・・・彼は多分、邪魔にはならないよ」
 組織がどういうものなのか、彼は一瞬で見破ったのかもしれないね。
 一人告げるボスに、どういう意味か腹心が尋ねる前に、彼は車をスタートさせた。




「こいつら、引き際ってもんがわかってねぇのかよ!?」
 連中のボスはすでにその場から離れている。というのに、わらわらと寄ってくる雑魚共相手に、エリオットはうんざりしたように叫んだ。
 いい加減、警察が面倒そうだからとその場を離れてしばらく経つのだが、連中は執拗にブラッドとエリオットを追いかけてくる。
「恐らく・・・・・これは別の連中だろう」
「あー・・・・・あのナントカって組織か?」
「ああ。帽子屋の構成員が頭の、な」
「え?じゃあこれ、なに?今日、門で起きたことへの報復かなにか?」
 げ、とエリオットが嫌そうな声を上げるのに、ブラッドが河原の橋げた背を預けながら「全部お前のせいだ」とうんざりしたように告げた。
「ええええ?けどさぁ・・・・・って!」
 いたぞ、と声が響き、ブラッドはうんざりしたようにそちらを見遣った。
「面倒だからと捲く事を最優先してきたが・・・・・全部叩いた方が早そうだな」
「だな」
「えりおっと・・・・・おにいちゃん」
 エリオットの手を掴んでいたアリスが、不安そうに声を上げる。「ごめんなぁ」とエリオットが渋面で謝った。
「俺達、今からあの煩い連中をやっつけなくちゃならないんだ」
「わるいやつなの?」
「ああ。すっげー悪い奴なんだよ!な、ブラッド」
「私たち以上に悪い奴がいるのかどうか、甚だ疑問だがな」
 ふう、と溜息を零し、ばきばきと拳を鳴らして前に出るエリオットに、ブラッドが目を細めた。
「適当で良いぞ」
「りょーかいっ!」
 走り出すエリオットに、何やら物騒な武器を持った若者が飛びかかって行く。鉄パイプだのなんだのを交わして、確実に一人ずつ、拳をヒットさせていくエリオットに、ブラッドはだるそうに目を細めた。
「三月ウサギに構うな!!」
 一人が声を張り上げ、集団のいくつかがブラッドに向かって行く。ぎゅっとアリスがブラッドの手を掴んだ。

 柔らかなそれを、直に掌に感じて、ちらと男はアリスに視線を落とす。
 それから、ふわりと彼女を片腕で抱き上げた。
「目を閉じて、耳を塞いでいなさい」
「え?」
「私が良いと言うまで、開けてはいけないよ?」
 いいね?

 碧の眼差しが、アリスを映す。彼女はこっくりと頷くとぎゅっと目を閉じて耳を塞いだ。
 丸い肩が震えている。寒いのかな、と妙にずれた感想を抱きながら、ブラッドはちゅっと彼女の額に口付けを落とした。

(あ・・・・・)

 ほわ、とアリスの胸の中が暖かくなる。ブラッドの肩口に顔を埋めるアリスを、その腕に抱き上げたまま、ブラッドがすっと目を細めた。






「もういいぞ、お嬢さん」
 くすくす笑いながら言われ、アリスはそっと目を開けて、耳を塞いでいた両手を離した。
 身を乗り出して辺りを見ようとする彼女の背中を抑えて、しっかりと抱きこんだブラッドが「帰ろうか」と囁く。
 ブラッドが顔を向けている河原には、若い集団がそこここに倒れている。救急車の手配をしたエリオットが、呻く連中の真ん中で、ブラッドに向けて手を振っていた。

 そして、そのエリオットの横には、倒れている敵と同等か、それ以上のブラッドの「部下」が取り囲んでいた。

 ブラッドに向かってきた連中は、全て彼の直属の部下に殲滅させられ、うめき声を上げている。

 その全てを高みの見物で通した男は、だるそうに溜息を吐いた。

「撤収するぞ」
 その一言に、全員がそれぞれ、バラバラに動き出す中で、アリスはブラッドの背後で動く影に気付いた。
 街灯のオレンジの光りに、ちかりと何かが光る。

「おにいちゃん!!!」
「!?」

 アリスの悲鳴に、ブラッドははっと後ろを振り返ると、抱えていた彼女をやや乱暴に放りだした。

「きゃん」
 落っこち、ころころと転がるアリスが、慌てて顔を上げると、茂みから現れた黒服に目を見開いた。

「親玉か」
 突進するその男に、ブラッドは薄く笑うと、突き出されたナイフを避けなかった。

「ブラッド!!!」
「ボス!!!」
 エリオットと彼の部下が声を上げる。

 ブラッドの直ぐ傍に居たアリスが、翡翠の瞳を一杯に見開く。ぽたり、と黒く濡れた液体が落ちる。
 ぽたりぽたりといくつも。

 その瞬間、アリスの脳裏で何かが砕けた。




 アリス、逃げなさい―――――
 アリス、いきなさい―――――
 アリス、アリス、アリス―――――


 飛び散った鮮血。
 赤い海。
 倒れていく人影。

 そして、ぐらぐらと揺れる電燈に、ちかりちかりと瞬いたナイフのその切っ先が・・・・・


 喉も張り裂けよと、アリスが絶叫するのと同時に、ブラッドは腹部に突き刺さる瞬間に、その刃を握りしめた掌に力を込めて、男が持っていたナイフをもぎ取った。
 ちっと舌打ちをし、よろける男の腹部を綺麗に蹴り上げる。
 血にまみれたナイフを放り投げ、ブラッドはいまだ悲鳴を上げるアリスの元に駆け寄った。

「アリス!」
 光を失った翡翠の瞳が、何を見ているのか。
 五歳から下の記憶が無いアリス。
 その時に何が有ったのか。

 ブラッドは、ほんの少しだけそれを知っていたから、細い悲鳴を上げる彼女をしっかりと抱きしめた。

「大丈夫だ。大丈夫だから」
 震える細い身体を、両腕に閉じ込めて、あやすように背中を撫でた。
「アリス・・・・・大丈夫」
 彼女の掌が、痛いほど、ブラッドの腕を掴んだ。何かに縋るように、指が真っ白になる。
 抱え込む彼女の耳元で、ブラッドは目を閉じて囁いた。
「アリス・・・・・私は生きてるよ?」
 ぽん、と血の溢れる掌で、やや強めに彼女の背中をたたくと、はっとアリスが我に返った。悲鳴が止まる。
「ぶらっど・・・・・」
 ゆっくりと焦点の戻った瞳が、間近にあるブラッドの顔を映した。
「ほら、な?」
 やがて、瞳の縁に溜まりに溜まっていた涙が、ぼろぼろと球を結び、後から後から溢れてくる。
 濡れるその頬に掛っている髪を、そっと払い、ブラッドは一房持ち上げると、アリスの前で口付けて笑って見せた。
「葉っぱがついてるな?」
 放りだし、転がった時に付いたそれを摘みあげれば。
「ふえ・・・・・」
 その様子に、くしゃっと顔を歪めて、アリスが声を上げて泣き出した。





「お嬢さまは大丈夫ですか〜?」
「お怪我はありません〜?」
「あ、アリス、どこも怪我してないよな!?無事だよな!?」
 口々に尋ねる連中に「何でもない、大丈夫だ」と連発し、なんとかなだめて家に帰りついたブラッドはぐったりとソファに腰を下ろした。
 そう言えば、結局何も食べずに大立ち回りをしてしまった。

 傷の手当てを、ゴロツキ連中の手当てで儲かっているような個人病院で済ませ、家に戻った時には零時を過ぎていた。

 だるいし紅茶が飲みたい、とぼうっとキッチン付近を眺めていると、不意にばたばたとせわしない足音がして、リビングのドアが開いた。
 間髪いれず、小さな塊が走り寄ってくる。

 アリスだ。

「・・・・・・・・・・・・・・・眠れないのか?」
 まあ、無理も無いか。
 疲れてブラッドの腕の中で眠ってしまっていたから、何でもないかと思って彼女の部屋まで運んで寝かせていたのだが、どうやら起きてしまったらしい。無言でソファによじ登り、ブラッドの腹の辺りに抱きつく少女に、彼は目を細めた。
 包帯の巻かれた手で、そっとその栗色の髪をなでてやる。
「悪かったな。巻き込んで」
 それに、アリスがふるふると首を振ると、俯けていた顔を上げた。
「けがいたい?」
「ん?」
「いたい?」
 抱きついていたアリスの手が、包帯の巻かれたブラッドの手の甲に触れる。そーっとそーっと、ちょっとでも触れたら痛いかもしれないと気づかう様なそれ。
 見上げてくる丸い瞳に目を細めて、「大した事ないよ」とブラッドは笑って見せた。
「ほんとう?」
「ああ。それよりも、アリスは大丈夫か?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 ちょっと俯くと、アリスはそのままブラッドの膝の上によじ登り、ぎゅっと彼のYシャツを握りしめた。
「あ・・・・・あのね、あのね・・・・・えっとね・・・・・あのね・・・・・」
 もじもじと身をよじり、小声で何かを繰り返すアリスに、ブラッドは微かに眉を上げた。
 怖いから、一緒に居て、と言えない彼女が透けて見える。
「なんだ?」
 丸い頬っぺたをふにふにすると、いやいやしてアリスが顔を上げた。
「ぶらっどが・・・・・けが、いたいとこまるでしょ?」
「ん?」
「けが・・・・・いたくなったらこまるから、ありすがいっしょにねてあげる」
 つん、と顎を上げて告げるアリスに、ブラッドは吹き出しそうになる。それを堪えて、「有りがたいお話だがな、お嬢さん」と困ったように顔をしかめて見せた。
「私は、一緒に寝る女性は、恋人だけと決めてるんだ」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 ふにゃ、と悲しそうに顔を歪めるアリスが、妙に可愛くて、ブラッドは煽るように更に悲しそうな顔をして見せた。

「だが残念ながら・・・・・私は今、恋人が居ないんだよ」
 傷が痛んだら、どうしようかな?
 膝の上のアリスにそう言えば、彼女はうーっとうめき声を上げた後、ぐいっと顔を上げた。

 薔薇色の頬っぺたが、更に赤い。
 おやと目を見張るブラッドの前で「じゃあ、ありすがおにいちゃんとけっこんする」と勢い込んで告げた。

「・・・・・結婚?」
 恋人を通り越して、結婚ときたか。
 目を瞬くブラッドの膝で、アリスがぎゅっと手を握る。
「そう。ありす、ぶらっどとけっこんするの。それなら、ずうーっといっしょにねてあげられるでしょ?」
 頬を膨らませて、挑む様に睨みつけるアリスの、耳が赤い。

 なるほど。恋人なら、いつか別れが来るかもしれないと、そう判断したのか。
 随分とませてるな、などと思いながらブラッドは お兄ちゃんとは結婚出来ないんだぞ、という台詞が喉までこみ上げるのを堪えた。
 そこが配慮できない辺り、可愛くて可笑しい。そして、なんだか面白そうなので、ブラッドは「そうか」と包帯の巻かれた手を差し出した。
 目の前に、小指を差し出されて、アリスが目を瞬いた。

「なら、約束だな」
 笑うブラッドに、アリスがぱっと嬉しそうに笑うと、こっくりと頷いて、小さくて細い小指をそこに絡めた。

「やくそく!」
「ああ。約束だ」
 ちゅっと指先にキスを落とし、ブラッドは可笑しくてたまらないと言った様子で笑いだす。

 何故笑われるのか分からないアリスが、不機嫌になる直前、ブラッドの腹がぐうっと鳴った。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 腹が空きすぎて死にそうだったと思い出したブラッドに、アリスが「しょうがないわね」とぴょいっと膝から飛び降りた。
 それからててててて、とキッチンに走って行く。

「アリス?」
「きょうねー、ありすね、がっこうでおにぎりのつくりかたならったの」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 晩御飯の時に、誰かに披露したかったのだ。でも、今日は無理だと思っていた。それが。
 嬉しそうに、アリスが笑う。
「ぶらっどにつくってあげる」
 ありす、ぶらっどのおよめさんだもん。

 あっつい!とか、しょっぱい!!とか妙な悲鳴がキッチンから上がるのを、男は目を細めて眺めた。
 知らないうちに笑みがこぼれてくる。


 面倒だと思って避けていた存在が、これほど面白いとは思わなかった。
 彼が面白そうだと思っていた「帽子屋」連中やそこに付随する組織よりもよっぽど。

 よっぽど明るくて、日向の香りがして、面白そうだ。

「上手く出来たかな、お嬢さん」
 立ち上がり、紅茶を淹れながら足元の少女に視線を落とす。
 皿の上には、いびつで巨大なまんまるのおにぎりが。

「・・・・・なんかちがう」
「そうか?」
「・・・・・・・・・・おいしくないかも」
「そうでもないと思うけど、な?」


 こうして、ブラッドとアリスの深夜のお茶会は、ダージリンと鮭おにぎりという組み合わせから始まることになるのだった。




















 というわけで!30万打&GWリクエスト企画より、なつきさまから

『希望としては「現代Verの兄妹設定」のお話が読みたいです!
 アリスが「おっきくなったらお兄ちゃんのお嫁さんになる。」と言った時の過去話をブラッド視点で読んでみたいです。
 これがブラッドの初恋だったら面白いな〜と思ったので(笑)』

 ということだったので、モノクローム・ラバーからこのような展開と相成りました><

 ・・・・・なつきさん、スイマセン(汗)初恋かどうか微妙な上に、凄い内容に・・・・・ orz
 なんとなぁく設定としてまして、ブラッド16・7、アリス7・8歳という感じでしょうか(笑)
 ブラッドがトンデモナイ上に、高校生に見えないと言う残念な感じですが、書いてる方が楽しかったです!!!

(2011/01/07)