巫山の雨





「バイト?」
 かたん、とキーを叩く手を止めて、書斎のパソコンから顔を上げたブラッドは、嫌そうに眉間にしわを寄せた。
「いいでしょ?」
 ふむ、と肘を付いて、顎に指を当てて考え込むブラッドを、切り出したアリスは上目遣いに見上げた。
「おまえに心配をかけるような稼ぎではないはずだが?」
「そう・・・・・だけど・・・・・」
「なんだ?欲しいものでもあるのか?」
 座り心地のよさそうな椅子から立ち上がり、机の前でうろ〜っと視線を泳がせていたアリスの頬に手を伸ばす。
「なんでも買ってやるぞ?」
「ブラッド」
 その手を抓って、アリスはむうっと頬を膨らませた。
「私はもう子供じゃないの!」
 だから、そういう扱いしないで。
 睨みあげるアリスの、前髪を留めている、青地にハートの模様が付いたピンをちょん、と突いて、ブラッドはくすりと笑った。
「何を今更。私にとって、お前はいつまでも子供だよ」
「〜〜〜〜〜〜」

 唇を尖らせるアリスは「もういい」と言い捨てて、くるりとブラッドに背中を向けた。後ろ手に、机に手を付いて寄りかかるブラッドが、愛しい者を見るように目を細めた。
「ビバルディに頼むから」
 がたん、とブラッドの手が机から外れる。
「・・・・・なんでそうなる」
「この家のルールはビバルディだからよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 心底忌々しそうに、ブラッドは舌打ちした。あの女の事だ。二つ返事でアリスのバイトを許してしまうだろう。
「姉貴には良識が欠けている。正しい判断が出来るとは思えないな」
 きっぱりと言い切ると、「貴方よりは過保護じゃないわ」とアリスは切り返した。
「私はっ!ブラッドみたいな自由気ままな職業よりも、やり手なビバルディの方を見習いたいわ!」
「姉貴は私よりも自由気ままだぞ?!」
 侮辱だぞ、と眉を吊り上げるブラッドに「少なくとも、自立した女性を支援してくれるわ」とアリスはつんとそっぽを向いた。
「―――なんだ、アリス。お前、この家を出るつもりか?」
 にわかに慌て、威圧感を滲ませて告げるブラッドに、アリスはとうとう声を荒げた。
「そんなわけないでしょう!?たかがバイトよ!社会勉強!!」

 言い切り、ブラッドでは話にならない、とアリスは大急ぎで彼の部屋を飛び出した。



「ふうん・・・・・で、お前達がそろって私の前にいるというわけか」
 リビングでカップを傾けて企画書に目を通していたビバルディは、自分の弟と妹が並んで向かいに座るのに呆れたような眼差しを送った。
「いいんじゃないのか?バイトくらい、高校生ならいくらでもやっている」
 ぱっと顔を輝かせるアリスに、ビバルディはにこりと笑った。
「なんなら、私の会社でするかい?」
「誰が下着メーカーなんぞでバイトなどさせるか」
「・・・・・・・・・・・・・・・誰もアリスをモデルにしようとは言ってないではないか。」
 まったくお前の過保護ぶりには呆れるわ。

 半眼で睨まれるが、ブラッドは紅茶のカップを傾けて聞く耳持たない。

「アリスはどうだ?お前に似合いのブラジャーをデザインさせるのも悪くないなぁ」
「どぎつい赤なぞ、趣味が悪い」
「一々絡むな馬鹿者!そんなんだから、お前はモテんのじゃ!」
「ブラッドはもててるわよ」
 一応フォローのつもりでそういうと、二人がまじまじとアリスを見た。それから、意味深に視線を交わすから、アリスは大好きな二人の態度に戸惑う。

 あれ?変なこと言った?

 こほん、とブラッドが咳払いする。
「とにかく!姉貴の所でバイトなど不賛成だ。それなら、私の知り合いの方が十分マシだ」
「知り合い?」
 目を瞬くと、ああそうだ、と酷く複雑な顔でブラッドはアリスを見た。

「ハウスキーパーというか・・・・・食事を作ってくれる人を探しているらしくてな」
「作家さん?」
 身を乗り出すアリスに、「まあ、な」とブラッドはにがにがしく告げる。
「しょっちゅう病気で雑誌を休載して、穴埋めに私が苦労させられる」
 うんざりしたように告げるブラッドに、アリスはくすりと笑った。
「それは貴方の筆が早いからでしょう?」
「あいつの代わりに抜擢されるのが我慢ならない」
「でも、雑誌の売り上げ貢献度一番はブラッドじゃない」
「世の人間は馬鹿ばかりだ。何が面白いのか判らん」
 ばっさり切り捨てたビバルディに、ブラッドはふんと鼻で嗤う。
「姉貴に認めてもらわなくて結構だ」
「で、その作家なら、アリスを安心して任せられるのか?」
 にやにや笑いながら告げるビバルディに、ブラッドは「他の場所よりは全然マシだ」という。
「どうする?病気がちだから、かなり我儘だが・・・・・嫌ならいいんだぞ?というか、お前がバイトをする必要は微塵もないのだし。大体、アリス、お前がバイトで家を空ける事になったら誰が私の」
「お前はいい加減妹離れをせんか!」
 永遠とぐちぐち言いそうなブラッドを一喝して、ビバルディはアリスを見た。

「いいんだな?」

 にっこり笑うビバルディに、アリスはこっくりと頷いた。

「兄さんと姉さんには迷惑かけないわ!!」






「大概にしないと、アリスに嫌われるぞ?」
 疲れた、と肩を手で叩きながらリビングにやってきたブラッドは隣接するキッチンの冷蔵庫を開けて、姉を振り返る。
「別に嫌われても構わないさ」
 そのまま、缶ビール片手に、すとん、とビバルディの隣に座る。彼女は面白くもなさそうにテレビを見ていた。
「困らないのか?」
 にっと笑って言うと、ブラッドはぼんやりと口の開いた缶の中を覗き込む。
「ああ。私と彼女が一緒になるのは決まった事だからな」
「・・・・・お前が勝手に決めたんだろうが」
 いつまでも我儘な奴だな、と呆れたように言う姉に、ブラッドは「そうでもない」と何故か遠い目をした。
「昔・・・・・アリスにお兄ちゃん意外と結婚する気はない、と言われてから私はアリス一筋だよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 ドン引きするビバルディの、開いた口に気付いたブラッドが咳ばらいをした。

「別に構わないだろう?」
 血は繋がってないのだから。
「ま、そうだが・・・・・アリスはその事をしらない」
 私達を本当の姉と兄だと思っている。
「そのアリスを傷つけても、添い遂げたいと?」
「男のロマンだよ。美人の妹と禁断の関係」
「・・・・・だから、お前の小説は読む気がせんのだ」
「言っておくがな、官能小説ではないぞ?今はごくごく一般的な狂気を突きつめた話で、赤いバラが好きな女王が苛立ちまぎれに処刑を命じて首を斬りまくるという」
「もっと読む気がせん」
 で?とビバルディはちらりとブラッドを見た。
「いつかお前がアリスと結婚するのはいいとして、さしあたっての問題はバイトだが・・・・・信用できるの相手か?」
 ああ見えて、アリスはモテるんだぞ?
 妹を溺愛しているという時点では、ビバルディもブラッドといい勝負だ。彼女が傷ものにならないように、見張る必要性を、二人とも感じている。
「知っている。アリスの携帯のメモリーを全部消去して怒られたばかりだからな」
 真顔で答えるブラッドに、ビバルディは遠い目をした。
「お前の読者が哀れでしょうがないわ・・・・・」
「大体奴は、そんな事をする体力がないからな」
 やれば恐らく死ぬだろうな。

 くっく、と喉の奥で笑うブラッドの冷たい眼差しに、ビバルディはやれやれと溜息を吐いた。

「お前も、いい加減にしないと、アリスに愛想をつかれるよ」
 モテるどころの話ではないだろうが。何でもかんでも喰いおって。
「私が愛しているのはアリスだけだ」
 だから、他の女は暇つぶしのただの余興だよ。
「それにきちんと避妊している。」

 艶やかな仕草で缶ビールを持ち上げる弟に、ビバルディは「絶対にそれをアリスの前でお言いじゃないよ」と釘を刺すのだった。








「ああ〜、君か・・・・・ブラッド=デュプレのいもう」
「はい、アリス=デュ・・・・・って、ええええええ!?」
 バスで15分。閑静な住宅街のなかにある、四角く灰色の建物が、ブラッドの紹介してくれた作家、ナイトメア=ゴッドシャルクの邸宅である。緊張した面持ちで、日曜の昼に尋ねたアリスは、ドアから舞い込んだ春の温かな風に触れた途端、ナイトメアその人がげふげふごほごほごぱあああっ、と派手に吐血した事に青ざめた。

「ちょ・・・・・な、ナイトメア先生!?」
 きゅ、救急車っ!!!

 慌ててバッグから携帯を取り出そうとして、その手首をがしいっとナイトメアに掴まれる。

「病院はっ〜・・・・・い、行きたくな・・・・・」
 ひゅーひゅーっと変な呼吸を繰り返すナイトメアの、その青ざめた顔に、更に更にアリスは青ざめ、これは病気がちとかそういう問題じゃないじゃないのよ、ブラッドの馬鹿ああああ、と力一杯脳内で自分の兄を罵る。
「そ、そう言っても・・・・・だって、こんな血」
「ああ、こ、これは挨拶の吐血だ・・・・・そ、それに全部が血と言うわけじゃない・・・・・半分はトマトジュースで・・・・・健康にいいって・・・・・担当の・・・・・」
「た、担当の」
「た、担当のうおぇっふわああああああ」

 きゃあああああああああ。

 アリスの買ったばかりのワンピースが鮮血にそまり、悲鳴が辺りを覆い尽くした。





「いや・・・・・済まないね、アリス・・・・・」
「そう思うんなら、もう一歩もベッドから降りないで」
 春らしい、桜色のワンピースは、ビバルディが買ってくれたものだ。血って落ちないのよね、と残念そうに考えながら、アリスはその上から貸してもらったエプロンを付けて、ベッドに丸くなる雇い主を見下ろしていた。
「それで・・・・・私はご飯を作りに来たんだけど・・・・・なにか食べたいものは?」

 最初は雇い主ということで、ちゃんとした態度を心がけようと、緊張した気持ちで考えていたのだが、ファーストインプレッションが最悪だったせいで、装うのもばかばかしくなっている。
「あれだけ吐血したんだから、お粥とかかしら」
 訊いておきながら、勝手に結論付けるアリスに、「お粥など私は食べないぞ!」と涙目でナイトメアが声を張り上げた。
「出来ればステーキが食べたい」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あれだけ吐いておいて、胃に負担が掛るモノを食べてどうするのよ」
 呆れたような視線を向けられるが「嫌だ!私はステーキが食べた―い!!」とベッドから声を荒げる。

 大概ブラッドも我儘だ。
 我儘だが、それは、「アリスが構えば」収まる我儘だ。

 はう、と溜息をつき、アリスは「ナイトメア先生」とにっこり笑って見せた。

「ステーキにしてもいいですけど、調理中に吐血したら、即効でお粥にしますけど、いいですか?」
 だてにブラッドとビバルディの妹ではない。アリスのグリーンの瞳に剣呑な光を見出し、ナイトメアはごく、と唾を呑んだ。
「そ、それは」
「約束できないのでしたら、強制的にお粥になりますけど」
「選択権なし!?」
「じゃ、吐血しないように大人しく、そこの薬、飲んでくださいね」
「い、嫌だ・・・・・薬は苦いから」
「そうですか。ではお粥ですね」
「なっ!?」
「薬を飲まなくてもお粥です」
 むしろ重湯にしますよ?

 素敵なアリスの笑顔の前に、なるほど、確かにこの女は帽子屋の妹だ、とくらくらする脳裏でナイトメアが思うのだった。






「落ち着きのない・・・・・」
 ブラッドの部屋は、ビバルディの部屋から遠い。遠いが、弟が所在なく家じゅうを歩きまわっているのが手に取るように判り、ビバルディは溜息を吐いた。
 手には、最近始めた編みぐるみのウサギ。まだ出来かけのそれを置いて、彼女は部屋から出た。

 自らの手で紅茶を淹れているブラッドは、確か今日が締め切りじゃなかったろうか。

「お前・・・・・早くしないとニンジンが来るぞ」
「判ってる」
 忌々しそうに吐き捨てて、紅茶の香りを吸い込む。
「その様子でははかどっておらんようだな」
 ビバルディに「飲むか?」と訊いたブラッドは、姉にも紅茶を淹れながら、苦々しくつぶやく。
「あと20枚だ」
「あと、一時間もすればニンジンが来るぞ」
「ニンジンニンジン連呼するな。それでなくても、締め切り間際のエリオットは鬱陶しいと言うのに」
 吐き捨てるブラッドに、ビバルディが何か言うより先に玄関のチャイムが鳴った。
「・・・・・・・・・・・・・・・あと、一時間・・・・・」
「アイツは打ち合わせは時間通りの癖に、原稿を取りに来るときだけ、とんでもなく早く来るんだよ」
 ち、と舌打ちして、ブラッドはカップを手にさっさと自室に避難する。その際姉に、「絶対に部屋に通すな」と釘を刺すのを忘れなかった。
「お邪魔します!って、あ・・・・・ブラッドは?」
 手に何やら箱を持った、ガタイの良い、オレンジの髪の、一見怖そうなのに、人なっこい笑みを浮かべた男がリビングに現れる。毎度みる姿に、ビバルディは肩をすくめた。
「あと20枚だそうだぞ」
「珍しいなぁ・・・・・あ、アリスは?」
「今日からバイトだ」
「え〜・・・・・せっかくアリスの分も買ってきたのに」
 しょんぼり肩を落とす男にくっく、と喉で笑い、ビバルディは「まあそこで座ってまっておれ」と言うと、エリオットに紅茶を淹れ始めた。
「アリスに会えるのすげー楽しみにしてたのに・・・・・あ、これ、渡しておいてくれるか?」
「ん?」
 差し出された小さな箱には、きらきらした王冠の飾りがついたピン留が入っている。
「なんか、こういうの買うの照れるんだよなぁ」
「そうか?・・・・・なんなら、次は我が社の下着でもプレゼントすればいい」
「ええ!?」
 真っ赤になるエリオットにほほほ、と人が悪い笑みを漏らしていると、ばん、と凄い音がして、エリオットの頭が叩かれた。
「アリスに手を出してみろ・・・・・お前相手に、完全犯罪を立証しよう」
 冷え冷えとした声がして、本の角で頭をぶたれたエリオットが、くらんくらんしながら後ろを振り帰る。
「ひでぇよブラッド・・・・・」
「姉貴も。変な事を吹き込むな」
 こいつの頭はオレンジ一色なんだからな。

 眉間にしわを寄せ、機嫌がどん底のブラッドは、わざわざ紙出しした原稿をエリオットの前に置いた。

「あと20枚だ」
「これ読んでるからさ、なるべく早くな」
「・・・・・・・・・・だるい」

 本当は今日はもうやる気がしないのだが、オレンジ頭の担当が居座っているのでは仕方ない。
 ブラッドを敬愛してやまないこの男、エリオット=マーチは原稿が出来るまで永遠と帰らない。
 本当に帰らない。
 永遠と待ち続ける。
 いつまでもいつまでもいつまでも。

 普段なら、酒でも飲んで色々話す仲だが、今この瞬間は。

 ・・・・・・・・・・・・・・・うざいことこの上ない。


「諦めろ」
 笑いだしそうなのを堪えて、ビバルディが弟を見上げた。
「アリスが帰るのは5時だよ」
「出来る事なら時間を早めたいところだな」

 忌々しそうに、ブラッドは窓から差し込む太陽の光を睨みつけた。






「あれ?君は・・・・・」
 たしか、帽子屋の妹さん・・・・・。
 玄関の呼び鈴が鳴り、お玉を持ったアリスが(結局鍋に落ち着いた)ドアを開けると、黒髪の背の高い男性がこちらを見ていた。
 帽子屋、というのはブラッドのペンネームと言うか、ハンドルネームと言うか、業界用語のようになっている。
 その名でよばれて、アリスは彼が出版社の人間で有る事に気付いた。
「アリス=デュプレです」
「そうそうアリス。エリオットが煩いくらいに自慢していた」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・へえ」

 あのオレンジニンジンはトンデモナイ所でトンデモナイ事を言いふらしているらしい。ひき、とこめかみを引きつらせていると、「その君がなぜナイトメア先生の所に?」と首を傾げた。

「ああ、私、今日から日曜日だけナイトメアのお世話に」
 次の瞬間、がっしゃああああん、と何かが割れる音がして、はっとアリスが家の中を振り返った。
「何?!」
 思わず怯むアリスの横を、「失礼します」と言って対面していた男が通り過ぎた。
 家の中に掛け込む男に、我に返り、アリスは慌てて彼を追った。

 何が有ったのか。

 キッチンか、リビングか、とぐるぐるする脳内で考えていると、前を行く男性が迷いもなくナイトメアの部屋のドアを開けるから、彼女は目を見張った。

「ナイトメア先生っ!!!」
「うわっ!?ぐ、グレイ!」
 グレイと呼ばれた男性に続いて部屋に入れば、今まさに、パジャマ姿のナイトメアが窓から逃げ出そうとしていた。
 どうやら、窓枠に足を掛ける際に、傍にあった花瓶を落としてしまって、派手な音が響いたらしい。
「何をなさっているんですか!?」
 つかつかとナイトメアに近づき、首根っこを掴みそうなグレイの態度に、「わ、私はただそこの庭に咲いている花々を見ながら、こう、構想を練ろうかなと思ってだな・・・・・」
「構想よりもまずは、今日締め切りの原稿です。出来てるんですか?出来てないんですか?出来てないんですね?」
「ば、馬鹿を言うな!ち、ちちちちゃんとだな」
「はいはい。出来てるのならさっさと出してください。出来てないのなら、今日こそ、仕上げてもらいますよ。もう何か月もブラッド=デュプレの連載にナイトメア先生の穴を埋めてもらってるんですから。」
 負けるわけにはいかないんじゃなかったんですか?
「そ・・・・・そうだ!私は天才だからな!!あんな男に負けるわけがなああい!」
「・・・・・・・・・・・・・・・あんな男で悪かったわね」

 何となく面白くなくて、思わず口をはさむと「あ、いや」とナイトメアが口ごもる。
「そうですよ。大分助けてもらってるんですから。すまないな、アリス。いつも君のお兄さんには迷惑をかけている」
「い、いえ・・・・・」

 珍しく常識的な対応をされて、アリスの頬が赤くなった。

「ブラッ・・・・・兄さんもいつも締め切り間際は機嫌が悪いから。」
 いつもだるそうにしてるから、その時にやってしまえばいいのに。

 肩をすくめて見せるアリスに、小さく笑い、グレイは特大の笑顔をナイトメアに向けた。

「さ、大天才のナイトメア先生。こちらとしましても、すでに表紙に『ゴッドシャルク、渾身の連載再開!』なんて煽りを入れてしまってるんですから、復帰一号に相応しいものをお願いしますよ」
「ううっ・・・・・グレイ、私は急に胃が痛く」
「胃薬ならここにあるわよ、ナイトメア」
「私は薬は飲まないと言っている!」
「流石ナイトメア先生!痛みをこらえて執筆ですか。帽子屋に負けず劣らずな気概ですね。その調子ですよ」
「い・・・・・いや、ちょっと休みた」
「休んだら晩御飯抜き」
「アリスっ!?」
「流石先生!!断食してまで原稿を完成させる・・・・・作家の鑑ですね!」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 なんなんだ、この飴と鞭は・・・・。

 持ち上げて突き落とす、とんでもないタッグが目の前で結成されそうな予感がして、ナイトメアは「吐きそうだ・・・・・」ともらしながらノートパソコンをベッドに持ち込んだ。







 すったもんだで(終始グレイがナイトメアを励まし続けると言う前代未聞の光景の後で)どうにか原稿を完成させたナイトメアとグレイに鍋の指南をしてから、彼女は立ちあがった。
 時刻は5時になろうとしている。
「じゃ、私はこれで帰るわね」
「ああ・・・・・気を付けてな」
 傍にあった鞄を持ち上げて、アリスはそのまま帰ろうとした。その格好に、「アリス」とグレイが不思議そうに声を掛けた。
「何故エプロンをしたまま・・・・・?」
「え?」

 ワンピースの前にべっとりと血が付いてるからです、と言えずに、アリスはあはは、と笑みを漏らした。
「き、今日はこれで来たから・・・・・その、これで帰ろうかな、なんて・・・・・」
 そそくさと鞄を抱えて、アリスはぺこっと二人に頭を下げた。
「それじゃ、あの・・・・・また、来週に」
「ああ。今日は楽しかったよ、アリス」
「ナイトメア先生、口から血を吐きながら言う台詞じゃないです・・・・・大変かもしれないが、俺も協力するから、手を貸してくれ」
 な?と笑われて、アリスは頬を染めてこっくんと頷いてそのまま部屋を後にした。


 春とはいえ、5時はもう薄暗い。バスで15分。歩いて30分。流石にエプロンのコーディネートは微妙だから、とアリスはもくもくと歩きだした。

 ナイトメアの我儘は、アリスの予想の上部を軽く超えて行き、散々な目に有った。有ったが、嫌いになれない感じがして、彼女はふふっと小さく笑う。
 それに、担当のグレイ=リングマークがとんでもなく優しい人だと判って、ちょっと舞い上がっても居た。

 自分の周りには我儘を言い通すような人間しかいないから、ああいう「大人」な雰囲気の人と話をするとほっとすることに気付いた。

(お付き合いするなら、ああいう人がいいのかしら・・・・・)

 ぼんやりそんな事を考えて、ちょっとにやけて居ると、「アリス!」と唐突に声を掛けられた。

「ブラッド!?」
 見れば、慌てた様子の自分の兄が、向こうから走ってくる。

「乗ってる予定のバスに乗ってないから、迎えに」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 はーはー、と息を切らす男は、アリスの髪に手を伸ばして「心配した」とほっとしたような顔で告げる。
「どこまで過保護なのよ」

 何となく、自分が今考えていた事が後ろめたくて、そう言うと「一生だ」とあっさり言われた。
 かちん、とくるアリスが、力一杯ブラッドを睨みあげる。だが、「子供扱いしないで」という彼女の台詞は、両頬を掌でくるんで見下ろすブラッドの瞳の前に揺らいだ。

 どきん、と心臓が跳ねる。

 自分の兄にしては、ブラッドは顔立ちが整っている。姉の、ビバルディもだ。
 自分は二人とは似ていないと思うが、どういうわけか、周りからはよく似ていると言われる。

 雰囲気が、なのだろうか、違うのか。


 でも、こうして見上げると、やっぱり自分の兄は、誰よりもカッコいいと思ってしまう。
 お世辞でもなんでもなく。

「疲れた顔をしている」
「ええまあ・・・・・初仕事だし」
「なのに何故、30分も掛けて歩いて帰って来たんだ?」
 指摘されて、アリスはうっと言葉に詰まった。

 血を吐かれて洋服を汚してしまいました、なんて言ったら、来週から行かせてもらえないかもしれない。

 無言で俯いていると、はあ、とブラッドが呆れたように溜息を吐くのが判った。

「来なさい」
「え?」
 唐突に手を掴まれて、呼びとめたタクシーに押し込められる。

「ブラッド!?」
「どうせあのバカの所為で服を汚してしまったんだろう?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「買ってやる」
「え!?」

 このまま家に帰るのだと思っていたアリスは、ブラッドの言葉に目を見張った。
「い、いいわよ!」
「何故だ?それは姉貴に買ってもらったんだろう?」
「だ、だって・・・・・」

 ブラッドに何かを買ってもらった事は、実はあまりない。姉のビバルディに甘える事は有るが、甘えろ甘えろと言ってくるブラッドにはどうしてか素直に物を頼めなくなっていた。

 何故なのか、アリスには判らない。

「良いわよ。そういうの・・・・・自分の彼女にしなさいよ」
「服を贈りたい女性は君しか居ないよ、お嬢さん?」
 くすりと小さく笑って、ブラッドがシートの上に置かれたアリスの手を握った。

(やっぱり変かな・・・・・)

 その手をこっそり握り返して、アリスはふうっと溜息を吐いた。



 唐突にバイトがしたいと言い出したのは、随分と自分が、この兄に依存していると気付いたからだ。
 たまにだが、ブラッドが彼女と(絶対に違うのだが、アリスは彼女だと思っている)歩いているのを見かけて、ずきりと胸が痛む事が有った。
 伸ばされた手が熱いと感じる事が有った。
 触れられて、心地よくて、甘やかそうとするブラッドに流されそうになって。

 過保護にされて安心している自分も居る。


 でもそれは、普通、身内に抱く感情にしてみたらおかしいのではないだろうかと、思ったのだ。

 兄弟仲が良い、と言われるのは嬉しいが、兄が自分を束縛しようとするのに嫌悪を感じないのは誤りではないかと思い出したのだ。

(いつかブラッドは・・・・・いや、「兄さん」は心から愛する人と結婚するんだから・・・・・)

 じわりじわりと胸を浸す寂しさに眩暈を覚えながら、アリスはバイトをしようと決めた。


 この人と距離をとって、ちゃんと兄離れをしなくちゃ、と。


「で?ナイトメアはどうだった?」
 ぼうっと「離れなくちゃ」と思いながら、手を繋がせたままにしていたアリスは、ブラッドの声に、彼を見た。
「病弱っていうレベルの話じゃなかったわ」
「だろうな」
 くっくっく、と楽しそうに笑うブラッドが、くっとアリスを引き寄せる。
「血でも吐かれたか?」
「ええ。あの人、病気のくせにタバコを吸うのよ。それでグレイと二人で」
「グレイ?」

 ひき、とブラッドの眉間にしわが寄るが、抱き寄せられているアリスには見えない。眠そうにもたれかかり、「担当さん」とあっさり答えた。

「来ていたのか?」
「今日、エリオット、来たんでしょう?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 そう言えばそうだった。他の男にアリスを引き合わせる事態になるとは、とブラッドは小さく舌打ちする。

「その担当さんと二人で散々説得して・・・・・ようやく原稿を書かせたけど、もしかしたらブラッド、ページ数増量かもしれないって、グレイが」

 何と忌々しい。

「謹んで辞退したいものだがな」
「でも、会議でエリオットがブラッドをプッシュするんでしょう?」
「あのオレンジは私を過労死させたいらしいからな」
「・・・・・・・・・・一番貴方に似合わない単語よ、それ」
「で?これからも続けるのか?やめた方がいいんじゃないのか?」

 立て続けに言われて、アリスはようやくブラッドの顔を見た。覗き込む男の眼差しは必死で、アリスは苦く笑う。

「だから、過保護だってば」
「うるさい。お前は私のものなんだから過保護だろうがなんだろうが構わないだろう?」
「妹はいつかは嫁に行くものよ、お兄ちゃん」

 車が止まり、ブラッドとビバルディが贔屓にしている一等地のブランドショップの前に降り立つ。車から降りたブラッドが、アリスの手を掴んだ。

「お前はまだ、理想は私か?」
「え?」
「子供の頃、結婚するならお兄ちゃんが良いと言ってくれただろう?」
 腕をとって組む男の笑みに、アリスは魅せられる。

 見上げたまま、アリスは笑った。

「・・・・・・・・・・・・・・・しょうがないお兄ちゃんね」
「当然だ。可愛い妹を渡す相手は、私以上の男だ」
 そして、そんなものはこの世に存在しない。
「だから、お前は永遠に私のものだ」


 トンデモナイ台詞と自信だと、そう思いながら、アリスは自分の腕に絡まる腕と、握りしめる指先に目を伏せて思う。

 その前に、兄さんは妹を置いて結婚しちゃうくせに、と。










「いいかい、アリス」
「うん?」
 ブラッドに買ってもらったのは、黒い、夜色のワンピースだ。夕方から夜へと向かうようなグラデーションが美しい。ひらりひらりと太ももを彩るレースの揺れ具合を見ていたアリスは、ビバルディの声に彼女を振り返る。
「ブラッドは以外に計算高い」
「・・・・・・・・・・そうね、そう思うわ」
「そして、お前は可愛い」
「・・・・・・・・・・・・・・・意味が判らないわ」
 半眼で自分の姉を見やると、嘆かわしそうにビバルディが天を仰いだ。
「お前は馬鹿で可愛い子だ。やすやすと魔の手に捕らわれるのを見ているのも忍びないが・・・・・いつ本性を剥きだすのか見物でもあるから、私の苦悩は深いんだよ?」
「???」

 ますます意味が判らないアリスに、ビバルディは「もう少し警戒心を持て」とだけ言って溜息を吐いた。


 ブラッドの女遊びが激しくなっていくのは、本当に求めたい存在がすぐそばにいて、触れる事も出来るのに、その全てを征服して浚う事が出来ないからだ。

 そして、それを看破している姉は、どうしたものかと頭を抱えたくなる。

 ブラッドは徐々に本気になりつつある。そして、アリスも・・・・・。

 怖いから距離を取る。常識的で有りたいからと。だから、バイトを始めようとしている事くらい、ビバルディにはお見通しだ。

 そのどちらも、知らないのは当事者のみ。


「まるで奴の小説のようではないか」

 紅茶のカップを傾けるビバルディは、「兄に買ってもらった」以上に喜んで、ふわりふわりとレースの揺れ具合を確かめるようにくるくる回るアリスに、苦く笑うのだった。









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