愛玩アサシン





 このマンションの主であり、アリスの家主である男の寝室の前で、彼女は立ち止った。
 手には、主と、主の来客の為に入れられた紅茶とお菓子。

 彼らに出す為に用意したのだが、アリスはノックする手を凍らせたまま立ちすくんでいた。


 普段は部屋の壁の厚さの前に聞こえるはずのない、中の会話が、少しだけ開いている扉から漏れてくる。

 それが、家主の意図なのか偶然なのか、はたまた来客の魂胆なのか、その全部なのか、アリスには図れなかったが、これだけは判った。


 自分の存在は、多分、その辺にある石ころと同程度のものでしかないのだということに。






 彼女は別に私の特別な女じゃない。
 ああそうだよ?だから、君が気にする必要はない。そんな顔をしないでくれないか?
 あれはそう・・・・・ただの興味から拾った・・・・・ペットのようなものだ。




 ドアから漏れたブラッドの台詞が、ぐるぐるとアリスの脳内を回っていた。永遠と同じ曲をリピートする壊れたコンポのようなそれを、アリスは止めなかった。
 止めようとすれば、出来たのかもしれないが、止める気にならない。

 じわりじわりと身体を侵していく、「不必要」という事実が心地良い。

 小さく、アリスは笑った。笑うと、止まらなくなる。
 くすくすくすくす、と彼女は夜空を見上げて笑い続けた。


 来客者は女で、恐らく、ブラッドにとって非常に有益な存在なのだろう。
 彼が手を出す女にはカテゴリーがある。

 利益になるかならないか、暇つぶしになるかならないか、面白いかそうでないか。

 借金のカタにここに転がり込んだアリスは、ブラッドにとって利益になる人間ではない。
 暇つぶしになるほど、彼を愉しませるような技術は持っていないし、面白みのある人間でもない。

 何がブラッドの琴線に触れて、彼に抱かれる羽目になったのか判らない。



 だから、彼に求められるたびに、アリスは微かな違和感を感じていた。
 どうして触れるのかと、嫌そうに尋ねた時、男は「触れたいからだ」と答えたが、その理由がやっぱり判らない。

 時折見せられる熱っぽい瞳と、束縛ジェラシー。抱きこむ腕の強さに、思わず縋りそうになり、他の誰よりも優しくされると、勘違いしそうになった。

 実際、心のどこかが勘違いしたがっていたのも、否めない。


 違和感と期待。堕ちて良いのかもしれないと言う、甘美な願い。

 でも、それは結局「愛玩動物」に向けられるような所有欲だと気付いて、アリスは失望すると同時に奇妙な安堵感も覚えたのだ。



 アリスには価値が無い。

 その事を、彼女は一番よく知っていた。
 価値が有るのは、アリスの姉だ。
 病床にあり、ひっきりなしに見舞いが訪れる彼女は儚く美しく、聡明で誰にでも好かれて愛される。
 アリスが心から好きになった人も、姉が好きだった。

 そして、それにアリスは「当然の選択だ」と皮肉もなく思ったのだ。

 心から思った。
 当然だ。
 自分と姉を天秤にかけて、アリスを選ぶ人なんかいるわけがないのだ。


 彼女の笑い声が夜空に溶けて、ふうっと溜息を吐く。後ろ手にコンクリートに手をついて、投げ出した足を、空中でぶらぶらさせる。



 今、アリスはブラッドのマンションの屋上に居た。
 屋上の、安全柵の外側。マンションの外壁に腰をおろして、地上30階の一番上に座りこんで、足を投げ出している。


 眩暈がしそうなほど、地面が遠い。歩く人は米粒だ。
 時折吹きぬける風が、アリスの長い髪を嬲り、夜空を見上げたままの彼女は目を細めた。


 もういいや、という感情が穏やかに心を満たしていた。

 もういい。
 もう疲れた。

 眼下には美しい夜景が広がっている。ビルの窓がきらきらとひかり、街灯がオレンジに輝き、テールランプがちかちかと瞬いている。空の星を全部掻き消して、地上の星は我が物顔に輝いている。
 その灯の一つ一つに、一人一人の人生があり、喜怒哀楽が有る。

 そして、それほどの人間が生活をしているのに、悲しい事にアリスを唯一としてくれる人は居やしないのだ。

 笑みがこぼれた。

 手を伸ばして掴もうとするのは、もうやめよう。
 だって、どうしたって叶わないのだから。

 自分なんかよりもずっとずっと価値のある姉。
 その姉が死んで自分が生きているなんて、どう考えてもおかしい。
 それなら、姉が死ぬ前に自分が居なくなって、彼女が長生きできるよう神様に頼んでみようか。

 足をぶらぶらさせて、空を見上げて、アリスは嗚咽を飲み込んだ。

 やっぱり痛い。
 この世界から消えても誰も悲しまないのかと思うと、あり得ないくらい寂しかった。
 でも、その寂しさは、アリスの胸に空いた虚無を埋めてはくれない。

 感情を飲み込んでいく。
 からっぽの自分がそこにある。


「なんでこんな事になったんだろ・・・・・」
 アリスだって人並みの幸せを願う、可愛い女の子だったころもあるのだ。
 それがどうしてこんなに空っぽになってしまったんだろう。


 判らない。
 どうでもいい。
 面倒くさい。

 ブラッドが良く言う台詞を繰り返し、アリスは笑うとそっと目を閉じた。閉じられた視界。ゆらりと闇が揺れる。
 風が吹き、アリスはふらふらと立ち上がろうとした。


 その瞬間、酷く乱暴な音がして、屋上のドアが引き倒されそうな勢いで開いた。

 ふわり、とアリスは目を開いて後ろを見た。
 誰だろう。
 何か、ここに用があるのなら、目撃者、なんて厄介な者にしてしまう前に、飛び降りてしまわないと、用があってきた人に申し訳ない。

 そう考えて、彼女が立ちあがるのとほぼ同時に、飛び込んできた人間と目が有った。

「アリスっ!!!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 酷く必死な声が彼女の名前を呼び、アリスは奇妙な物でも聞いたと言わんばかりに目を細めた。

 碧の瞳が、驚愕に見開かれている。息が上がっているのが、上下する肩で判った。
 世にも奇妙な事に、ブラッドが心の底から焦っている様子で、アリスを見ていた。

「なあに?随分余裕がないわね」
 軽く微笑んで言えば、ぎくりとブラッドの身体が強張った。乾いた喉を潤すように何度も唾を飲み込んでいる。
「・・・・・・・・・・当然だ。そんなところに君が居る意味が判らない」
 じり、と歩をつめようとする彼は、酷い格好だ。

 慌てて羽織ったとした思えないグレーのワイシャツ。適当な長さで切られた髪も、ところどころ跳ねているし、今まで寝てました、という雰囲気が見て取れる。
 足元がサンダルだったらもっとおかしいのに、とアリスはぼうっと遠いところで考えた。

「こっちに来なさい」
 有無を言わさない、凄味のある声で言われる。でも、空っぽで、感情の凍結したアリスにはまるで届かなかった。
「どうして?」
 嘲笑うように、焦るブラッドに告げる。
「何の問題もないわ」
「大ありだ!・・・・・アリスっ」
 じり、と再び距離を詰める。今すぐ駆け寄りたいのに、力一杯それをセーブしている男が酷くおかしい。
 我慢なんて似合わない人なのに。

「ないわよ」
 軽く言って、アリスはふわっと両手を広げた。

「っ!?」
「だって、私一人落ちても、別に誰も悲しみはしないわ」
「馬鹿な」

 吐き捨て、ブラッドが奥歯を噛みしめた。慎重に手を伸ばす。

「いいから、来いと言っているっ!」
「・・・・・・・・・・・・・・・イヤ」
「アリス!」

 ちらりと、必死な色が彼の瞳に過り、アリスは「いやね」ところころ笑った。

「もうやめて。そんな演技必要ない」
「!?」
「いいのよ、ブラッド。もうやめましょう?楽しんだでしょう?」
 ゲームは終わり。何にだって終わりは有るんだから。
 ごくん、と男の喉が上下し、アリスは空を仰いだ。

 更に、彼女のバランスが不安定になり、ブラッドは全身の血が足元まで落ちる感覚を味わった。

 ざわり、と足元から恐怖が上ってくる。
 生きてきて、そんなものを感じたのは、二度目だ。

「お終い。これにて終了。」
 顎を上げたまま、アリスの視線がブラッドに落ちた。
「壊れたら、新しい玩具を探せばいい。ペットだってそうじゃないの?・・・・・今度はもっと従順なのにするといいわ。私じゃ貴方の優秀で忠実なペットにはなれなかったものね」
「なにを・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・人間のままで死なせて」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 自分は何を言った?

 心にもない事を、散々。
 彼女を傷つけたくて・・・・・彼女を動揺させたくて。

 手を出して、自分だけが溺れて行くのが我慢ならなかったから。

 どうにかして「私だけを見て!」と泣き叫ばせたくて、我儘を言わせたくて、随分な事を言った。


 それの結果がこれか?


 ぽろぽろとアリスの瞳から涙がこぼれる。地上の星に照らされて、彼女のグリーンの瞳が、ちかちかと瞬いていた。
 ふわりと風が吹き、彼女の栗色の髪を夜空に舞いあげる。


「ペットなんて嫌。興味本位も嫌。理由も判らず抱かれるのも嫌で、それに甘んじてる自分が一番嫌。貴方に愛されてるって勘違いする自分も嫌。勘違いしたくなる自分も嫌。」
 嫌な事ばっかり。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 何を履き違えたのだろうか。何を掛け間違った?


「ブラッド・・・・・知らないかもしれないけど」

 声が出ない。

「私・・・・」


 貴方が好きだった。


 ふっと眼を閉じた彼女の腕が宙を舞う。


 ふざけるな。


 唐突に沸き上がった、言葉。それはとんでもない衝撃で、ブラッドを突き動かす。

 口一杯に鉄の味が広がる。食いしばりすぎたせいで、口の中が切れたのだ。それと同時に、折れても引きちぎれてもかまわないと伸ばした手が、アリスの手首を掴んでいた。

 掴んでいた、なんて生ぬるい。

 握りつぶすほどの衝撃で、奪い取っていた。


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 青ざめた彼女が、へたり込む。落ちかかり、揺らいだ彼女の身体は安全柵まで引き寄せられ、わずかな隙間にへたり込んでいる。

 ブラッドは、怒りで声も出なかった。

 何に対しての怒りなのか明確ではないが、とにかく腹がたって仕方無かった。

 互いに、深呼吸を繰り返し、ようやく、男は蹲る女に視線を向けた。小刻みに震える彼女を、慎重に立たせ、腰を浚って引き上げる。
 ようやく柵の内側に引きずり込んで、ブラッドは冷や汗でぐっしょりになったワイシャツ越しに、きつくきつく彼女を抱きしめてコンクリの床に倒れこんだ。

「君は・・・・・」

 どんな言葉も出ない。それでも男は無理やり言葉を捻りだした。

「唯一私を殺せる人間だ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「心臓が持たない」


 吐き捨てられた言葉と同時に、圧し掛かられて、その手が乱暴にアリスの身体を確かめて行く。

 まるでここにいる彼女が、本物なのかどうか確かめるように。

「ブラ・・・・・ッド」
 声が詰まる。
 アリスが何か言うより先に、ブラッドは口付けた。

 深く深く深く深く。


 どちらの唇も舌も震えていて、どちらもが、相手を失う事に恐怖している。

「金輪際」

 低く、掠れて熱っぽい声で、ブラッドは命令した。

「二度と、こんな真似をするな」
「・・・・・・・・・・・・・・・ごめん」


 つぶやいた瞬間、押し殺していた恐怖と悲しみとが溢れ、空っぽの身体を満たしていった。

 声を上げて泣く彼女を、ブラッドはただひたすら抱きしめた。



 ああまた、こうやって、私は勘違いするのだろうか。

 落ちてしまえばよかった。
 あのまま消えてしまえば。

 それなのに、それなのに、それなのに。


「頼むから」
 ブラッドの掠れた声が耳を打った。
「勝手に居なくなろうとするなっ」

 再び落ちたキスは、血の味がした。







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