愛でもなく恋でもない離別





 夜の闇が辺りを覆い尽くしている。月も星もない、曇天の夜。

 小さなその部屋は、倉庫の地下。手すりのついた階段の上に、ドアがあり、黄色い光がそこから漏れているのがぼんやり見えた。

 両手足を縛られ、冷たい、コンクリートの打ちっぱなしの床に転がされていた男は、がちん、と金属音がして錠前が外されるのを知った。
 軋んだ音を立ててドアが開く。

 身体を起こそうともがくが、蹴られた脇腹が痛い。苦痛に顔をゆがめていると、靴音を響かせて階段を下りてきた男に、強引に立たされた。

 ひやりとした色合いしかない、ブルーの瞳。倉庫の灯を受けて、オレンジに輝く髪。

「歩けよ」
 低い声が促し、男は戒めを解かれた脚で、のろのろと階段を上った。

 息をするたびに激痛が走る。骨がイカレテいるらし。だが、あんな連中に捕まって、生きている事が不思議だ。
 コンクリート詰めにして海に放り出す算段をしていた連中が、上からの命令で残念そうにそれを取りやめたのを、男は知っている。

 上からの、命令。

 奥歯を噛みしめると、殴られて切った傷に、再び血が滲む。

 これからどうなるのか。
 彼らの言う「上」の人間が、自分をこっぴどく痛めつけるつもりか。

 遅々として進まない、重たい足取り。それでも、黄色い光の満ちた倉庫にようやく出れば、「先生!」とその場にふさわしくない、甘やかな声が響いた。

「・・・・・アリス・・・・・」

 駆け寄り、己に飛びつくのは紛れもなく、自分の教え子で、そして大切な少女だった。

「何故・・・・・」
「先生・・・・・大丈夫?怪我は・・・・・痛いところは無い!?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 どこもかしこも痛い、という台詞をなんとか飲み込み、笑って見せる。
「ああ・・・・・多少、骨がイカレテるけど、大丈夫だ」
「先生に酷い事しないでって言ったじゃない!」
 翡翠の瞳に、炎を宿し、アリスは男の後ろに立つ人物を睨みつけた。
「俺の所為じゃねぇよ。三下が勝手にやったんだ」
 もちろん、ブラッドが悪いわけでもない。

 仏頂面で答え、オレンジの髪の男が、男の手首の戒めも解いた。

「え・・・・・」

 唐突に自由になった身体。引き立てられて歩いていたその膝から、途端に力が抜け、男は床に崩れ落ちる。
 慌てたアリスが、その背を支え、「先生」と泣きそうな顔で男の顔を覗き込んだ。

「ああ・・・・・大丈夫」
「我々は、とんだ誤解をしていたよ」
 だから泣かないで、とアリスの目尻に指を伸ばしかけた男は、不意に響いた慇懃無礼な声にはっとする。

 ぎくり、とアリスの身体が強張った。

 ぎゅっと、男の血の跡が付いたシャツを、アリスが握りしめ俯く。

「君は彼女を助けてくれた。彼女の命の恩人だったそうじゃないか」
 かつん、と彼の靴が、音をたてて近づいてくる。

 ふ、と斜めに男を見下ろす碧の瞳は、優しげに見えて、その実、奥に狂気にも似た色が滲んでいた。

 ざわ、と男の背筋に冷たい戦慄が走る。

「そんな君に、大層失礼な真似をした。非礼を詫びるよ」
 男の数歩手前で止まり、にっこりと笑う。更に、アリスのシャツを掴む手に力が籠り、それから、力なく手が落ちた。

「アリス・・・・・」
「先生・・・・・」

 顔を上げて、彼女はふわりと笑った。

「ありがと・・・・・う、ございました」

 じわり、とアリスの翡翠の瞳に涙が滲み、男は混乱する。

 何を言ってるんだ?
 彼女は、なんの挨拶をしている?

「アリス・・・・・」
「彼女から真相を訊かされてね。部下に指示をだしたのだが・・・・・どこでどう、間違っていたのか」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「帰りの車はちゃんと手配した。君のアパートまで、送らせる」
 二度と、君のような善良な市民の前に姿を現す事はないから、安心しなさい。

 言葉の調子とは裏腹に、彼から放たれる空気は温度を下げていく。

「さ、別れのあいさつがすんだら、おいで、アリス」
 甘い声が、彼女の名前を呼ぶ。
 泣きそうな彼女に、手を伸ばした男から、ふいっと彼女は視線を逸らすとこくん、と喉を鳴らしてお辞儀をした。

 そのまま、腕を組んで立つ、黒いスーツに、ワインレッドのシャツの男・・・・・ブラッド=デュプレの方に歩いて行く。

「アリスっ!!」

 立ち上がり、わき腹が悲鳴を上げるのを無視して、よろける足取りで精一杯、男は彼女に近づいた。
 振り返らないアリスの、肩を掴む。

「どういうことだ?・・・・・君は・・・・・」
「私・・・・・」

 俯いたまま、ぎゅっと手を握り、それから彼女はくるりと振り返ると、困ったような笑みを見せた。

「やっぱり先生には相応しくなかった」
「っ」
「先生の事・・・・・好きだったけど・・・・・もう、終わってた」
 必死に言葉を繋ぐアリスに、男の目が見開かれていく。
「だから・・・・・ごめんなさい」

 懸命に涙をこらえて、泣かないようにする。
 泣かないのは得意なのだ。
 笑える。
 大丈夫。

「先生、ありがとう。もう、大丈夫だから」

 言い切り、アリスはそっと男の手を肩から外すと、ぎゅっと握ってから、離した。

 そして再び、背を向けて歩いて行く。

「・・・・・・・・・・・・・・・」
 唖然とする男と、俯き、表情の見えないアリスに、ブラッドは目を細める。

 面白くない。

 膝が震えているアリスが、手の届く位置に来た瞬間、ブラッドは彼女を強引に抱き寄せるとにっこりと笑った。

「さあ、これで君の心配事は無くなったな?」
「・・・・・・・・・・・・・・・そうね」
 くっと顎を持ち上げられて、翡翠の瞳を覗きこまれる。

 涙があふれる。

「いくぞ」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 唇が、触れるか触れないかの位置まで顔を寄せられ、酷薄に笑いながら囁かれる。


 歩きだすアリスに、男は駆け寄る事が出来なかった。








「さ、君の望みは叶えた」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「今度は君が、私の望みをかなえる番だ」
 くすっと笑い、車の後部座席、隣に座るアリスを抱き寄せる。

 頬を撫でる指に、身体が熱を持つ。

 精一杯の虚勢で、己を睨みつける女に、ブラッドは心から楽しそうに笑った。

「別に大した望みじゃない」
 繋ぎ、持ち上げられた左手の薬指に、口付けが落とされる。
「君が、生涯を誓ってくれればいいだけ、だからな?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」


 何かを言う間に、落とされた口付に、アリスは目を閉じる。

 この人の愛を望む自分は愚かなのだろうかと、心の片隅で思いながら。






100815