強烈過ぎる自白剤
一度だけ抱かれた。
その熱を、身体は顕著に覚えている。
消したくて、アリスは頭からシャワーを被り続けていた。
「いつまでそうやっている気だ?」
いい加減、出てきなさい。
曇りガラスのバスルームのドアに、ワインレッドのシャツの背中が映りこんでいる。脱衣所に腰をおろし、ドアに背をもたれ掛けている男を、お湯に濡れた前髪の隙間からアリスは見上げた。
早く。
早く消してしまわなくては。
興味本位で手を出され、中から喰らわれていく。ブラッドに「教え込まれた」身体は彼しか知らないにも関わらず、随分と甘美に出来あがってしまっていたのではないだろうか。
薄暗い部屋。
いつもと違うベッド。
沈み込んで、かつての恋人に手を伸ばすと、彼は酷く困ったように笑っていた。
なんとなく、間の悪そうな、ばつの悪そうな顔だった。
「?」
彼女を「仕込んだ」男は目を覚ました彼女が手を伸ばすのを好んだ。その腕をとって引き寄せて、髪を撫でて抱きしめる。
優越の滲んだ男の顔に、毎度面白くない気分になったが、あやすようなその仕草にその気分も持続しない。
結局、「可愛いな」という、耳元で囁かれた低いつぶやきに全てを許してしまいそうな自分が、その瞬間には確かに存在していたのだ。
だから、無意識に別のヒトにも手を伸ばしていた。
それに対して微妙な対応をされて、アリスはちょっと混乱する。
(私・・・・・なにか、間違ってる?)
伸ばした腕の、ひっこめ方が判らず、アリスはぎこちなくそれをシーツの上に落とした。
「・・・・・・・・・・アリス」
しばらくの沈黙ののち、何が違うのだろうか、とぼうっとする頭で考えていると、不意に先生の声が耳を打った。
そっと目を開けると、彼と同じ色なのに、どこか柔らかい光を浮かべた先生の眼差しに、アリスが映っていた。
「・・・・・ちょっと・・・・・驚いた」
「え?」
「そんな顔・・・・・するんだと思って・・・・・」
「?」
そんな顔?
それってどんな顔?
「???」
判らない。眉間にしわを寄せるアリスが、酷く難しそうに考え込むから、男はようやっと自分の知っている彼女を見出して、ほっと胸をなでおろした。
「いや、その・・・・・まるで・・・・・」
「まるで?」
「・・・・・・・・・・いや。うん・・・・・その・・・・・」
がしがしと頭を掻いて、そのまま男はアリスに背を向ける。
彼が知っている彼女はそこには居なかった。
恥じらう姿は、彼が想像できるアリスの姿だ。恥ずかしそうに頬を染めるのも。
だが・・・・。
啼く声の艶っぽさに。撓る身体の柔らかさに。溶けて濡れる体温の熱さに。絡み取られる内部に。
酷く困惑し驚き、持って行かれてしまったと、そう言ったら、彼女は傷つくだろうか。
完全に男としての矜持を粉砕されてしまったと言えば。
「センセ?」
掠れた声が不安そうに尋ねる。それに、男は「はは」と乾いた声を上げた。
「・・・・・・・・・・いや。どこでそんなことを覚えたのかと思って・・・・・さ」
「!!!!」
その一言は、アリスに軽い眩暈と衝撃を与えた。
「アリス」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
ざあざあと耳を打つシャワーの音は止まらない。彼女のバスタオルを弄んでいたブラッドは、何度目になるか判らない呼びかけをする。
「そんなにしたって、奴からの感触は消えやしないさ」
「っ」
やれやれ、と呆れたように言われて、アリスは凍りついた。
「消したいんだろう?」
にやにや笑っているブラッドが想像できる。ぎり、と奥歯を噛みしめて、アリスはそれでも頭からお湯を被り続けた。
身体に残っている、先生の感触。
抱かれて感じたのは、空虚。
寂しさ。
本当に愛しているのは彼じゃないと知った所為での、空しさ。
だから、それは感情的な部分も多いのかもしれないが。
ありていに言えば。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・物足りなかった。
「アリス?」
くっく、と喉で嗤っているのが判る。かちん、とドアノブが揺れるのが見えて、アリスははっと身構えた。鍵を掛けない約束で、アリスは一人でバスルームにいる。すっと細めに開いた扉から、冷たい空気が流れ込んでくる。シャワーを抱きしめて、身を隠そうとするアリスは、そこから差し伸べられた腕が、ひらひらと振られるのを眺めた。
「おいで」
掌が上を向き、何かを求めるようにく、と指が折れる。
ぞくん、と身体が震え、アリスは戸惑って後ずさる。
「アーリース」
腕はそれ以上こちらにこない。
ガラスに映る横顔は、酷く楽しそうにも、愉しそうにも見えた。
「いいから来なさい。そんなことをしても、君の身体から奴の感触は消えないよ。なら、お湯がもったいないだろう?」
来なさい。
今度は有無を言わせない強さが有り、アリスはのろのろと腕を伸ばしてコックを捻り、シャワーをちゃんと元に戻した。ハンドタオルを取ろうとする前に、立ち上がった男が、容赦なくドアを開け、バスタオルに彼女を包んでしまった。
「ブラッド・・・・・」
「ふやけてる」
くすくす笑う男が、アリスの手を取って指先に舌を這わせた。
そのまま、抱き寄せるようにして、彼女の濡れた身体を拭いていく。
「一人でできるわ」
「駄目だ。拭き終わったらまた、バスルームに戻る気だろう?」
「そんな事ないわ」
俯く彼女の髪を、丁寧に拭っていく。
「そんなに私に抱かれるのが嫌か?」
微かに不機嫌の滲んだ男の声に、アリスは視線を落とした。
嫌だ。
嫌に決まっている。
自分の不注意だったと、アリスは後悔のどん底で考える。
何故、先生にねだったりしたのだろうか。
ただ、寂しかったのかもしれない。確かめたかったのかもしれない。
ブラッドとの行為に甘さなんてなくて、溺れそうになるのはただの錯覚なんだと。
酷く傷つけられているのだとそう思いたかったのだ。
なんという愚かな選択だったのだろうと、ブラッドの手が必要以上に優しく肌に触れるのを感じながらアリスは思う。
「答えなさい」
く、と顎を掴まれて顔を上げる。覗き込む碧の瞳に、仄暗い光を見つけて、アリスは身体の芯に火が付くのを感じた。
ゆっくりと口を開けて、息を吸う。
「嫌よ」
掠れた声で言えば、男の目がすっと細くなった。碧のそれを見かえしながら、アリスは歪んだ笑みを浮かべた。
「貴方に捕らわれているのが一目瞭然で判るから」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
歪んだ笑みは、最終的には苦笑にしかならなかった。軽くまわされただけの男の腕。ブラッドの胸に両手を付いてぐっと押す。
拒絶する仕草に、はっと男が我に返った。のがれて行く白い身体に手を伸ばす。
ほんのりと色づいた肌に、掌が吸いつく。
握りしめた手首の細さと、震えた肩に、ブラッドは安堵すると同時に焦げ付きそうな嫉妬を感じた。
「では何故、必要以上にお湯を被る?」
引き寄せられて、アリスは何か答えるより先に抱きあげられるのを感じた。
身体を覆っていたバスタオルは剥ぎ取られ、冷たい空気が肌をなでる。素肌に触れるブラッドのワイシャツの感触が、自分が一糸まとわぬ姿で有る事を強調するようで、心許ない。
身動きが出来ない。
器用に寝室のドアを開けたブラッドが、柔らかな寝台に彼女を落とした。
「っあ」
「何故、奴の感触を消そうとする?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「消す必要はなにもないじゃないか、アリス」
「他の男が手を触れた女がいいの?」
皮肉で応じると、アリスの上にのしかかり、ワイシャツを脱いだ男がにいっと唇を引いた。
「ああ・・・・・腹は立つが・・・・・興味もある」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
興味。
彼女の歪んだ眼差しをとっくりと覗き込み、ブラッドはその手を頬に伸ばした。すり、と親指がアリスの唇を撫でる。
「君にとって・・・・・私はどの程度の男なのか」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「私しか知らなかった君が・・・・・さて?どうなったのかな?」
「っ」
かっと頬に血が上り、アリスはばっと男から視線を逸らした。出来れば逃げ出したい。反射的に飛び起きようとした所為で、手首に力がこもり、それがより一層ブラッドを煽って、ベッドに縫いとめられてしまった。
「あの男はそんなによかったのか?君が感触を消したいほどに?私じゃ物足りないと思いたくないから?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
ぐ、と奥歯を噛みしめ、ついでに唇もかもうとすると、それより先に、ブラッドのキスが落ちてきた。
強張った唇を宥めて、同時に手が、アリスの輪郭を確かめるように触れて行く。
違う。
ブラッドを受け入れすぎた身体は正直で、与えられる熱に流されそうになる。
苦痛に耐えるのは慣れているのに、甘さや優しさに慣れないアリスは、特にブラッドが引きだした甘美な感触に弱い。
抵抗は徐々に弱まり、男が笑みをこぼす頃には、口を開いて舌の絡んだキスを繰り返していた。
「んっ・・・・・ぅ」
「ふーん?・・・・・キスは、私の方が良さそうだな?」
では、次は?
離れて行く赤い舌。それを見詰めて、アリスは上がった吐息が更に切れるのを感じた。
心臓が持たない。
「ああ、気にするな。私が勝手に調べるから」
「ブラッド・・・・・」
ようやく声が出る。酷く甘い気がしたが、アリスは無視した。
「そういう意味で・・・・・シャワーを浴びてたわけじゃ・・・・・」
「いいや?・・・・・君は私に抱かれるのが嫌だと言った。それはつまり、あの、君の・・・・・君だけのナイトに抱かれる方が好きだと言う事だろう?」
「ちがう・・・・・わ・・・・・」
「違わないさ。でなければ嫌がるわけがない」
「話を・・・・・」
「愛してくれたんだろう?よかったな、アリス。愛されて」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
じわ、と胸が痛み、涙が競り上がってくる。
違う違う、と心が首を振るが、首筋に噛みつかれて、出てくるのは甘い嬌声だけだ。
「なんだ?震えてるぞ?」
そんなに触れて欲しかったのか?奴は触れてくれなかったのか?
ああ、最低だ。
最悪の男だ。
そして、ブラッドの唇に、舌先に、震えてよがろうとする身体はもっと最低だ。
「さあ、比べてみろ?」
私とあの男と、何が違うのか。私とするのが嫌なら、奴との愛ある行為でも思い浮かべていればいい。
「ブラッド・・・・・っ」
「出来る物なら、な?」
嗤いながら、ブラッドはアリスをじわりじわりとおかしていく。
「ちがうの」
掠れた声でアリスは必死に言う。でもそれはブラッドからの熱の前に浮いて、溶けて、消えて行く。
アリスが別のヒトとの情事の感触を消したかったのは。
頭からシャワーを浴び続けたのは。
まるでお預けを喰らったように、自分の身体がブラッドを求めて求めて仕方なくなるのではないかと思ったからだ。
乾いた所に、水がしみ込むように。満たすように。いっぱいにして欲しいと。
だから消したかった。
好きだったのに、望んだのに、物足りなさを感じた身体。
ブラッドの手で、彼でしか感じなくなってしまった身体。
別の人を受け入れて、より顕著にそれを識ってしまった身体を、リセットしたくて。
「ブラッド・・・・・」
判らない。
これは愛なのか、恋なのか。ただの本能なのか。
自分はアリスとして彼に縋っている?
それとも、ヒト科ヒト類ヒトのオンナとして彼に縋っているのか?
理性なのか本能なのか。
ヒトなのか獣なのか。
「ブラッド」
今度こそ、アリスの声が泣きそうに切羽詰まっていて、ブラッドは彼女をさいなむ動きを止めて目を合わせる。
目元を潤ませて、シャワーのお湯だけでなく別の物に濡れた彼女が、ブラッドの肩に置いた手に力を込めた。
「あいしてるっていって」
掠れた声で、潤んだ瞳で強請られて、ブラッドはこっそり息をのんだ。
「どうして?」
底意地の悪い言葉が、唇から洩れる。
そうだ。
もっともっともっともっと求めれば良い。
泣いて縋って、罵ればいい。
貴方しかいないのだから、愛してると言ってと、あの男の前で叫べばいい。
「おねが・・・・・」
ひゃう、と唐突に突き上げられ、その感触に喉から声が漏れる。
「アリス・・・・・」
彼女を抱きしめて揺さぶりながら、とびきり甘く、ブラッドは彼女の耳に囁いた。
「愛してるよ」
ぼうっと眼を開ける。
ブラインドの降りた窓から、薄い日が差し込んでいる。日はそれほど高くないようだ。
眠ったままの頭のまま、アリスは手を伸ばした。
ゆらりゆらりと揺れる視界に、満足そうなブラッドが映る。
ああ、また怪訝な顔をされる・・・・・
混乱している記憶が引きだしたのは、一つ前の行為でのこと。
ぱたり、と落とそうとしたその手を、ブラッドが取った。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「おはよう、お嬢さん」
そのまま抱き寄せ、首筋に顔を埋める。男が、くつり、と笑うのが判った。
「いつも思うが、気だるげに男に手を伸ばす君は、堪らなく色っぽいな」
イタヅラをしたくなる。
「今日は・・・・・変な顔しないのね」
寝ぼけているアリスが、ぽつりと零した台詞に、ブラッドが微かに強張った。
「ん?」
計略に長けている男は、変わらず甘ったるい声で促した。
「この間は・・・・・酷く・・・・・こまってたじゃない・・・・・」
「・・・・・・・・・・ああ、そうだったな」
知らない事実を吐かせようと、ブラッドは調子を合わせた。柔らかく、彼女の髪をなでる。
自白剤など無くても、ブラッドは相手に知りたい事を喋らせる。
時に甘美で。
時に誘惑で。
時に・・・・・信じられないほどの苦痛で。
寝室でなら、もっと顕著に。
「そうよ・・・・・」
「君があんまり色っぽいからだろう?」
「・・・・・・・・・・・・・・・そう・・・・・でもそれで貴方が口惜しそうって、おかしいわ」
そっとブラッドの胸に額を押し当てて、アリスが目を閉じる。
再びまどろむ彼女の、普段よりもずっと高い体温を抱きしめて、ブラッドは軽く目を見張った。
それから、酷く酷く楽しそうに愉しそうに身体を震わせて笑いだす。
珍しく、それは彼の口から洩れて、笑い声になった。
「?」
訊き慣れない笑い声。再び目蓋を開いたアリスに、「まだ寝ていろ」とブラッドがちうちうとキスを繰り返した。
「なあ、アリス・・・・・」
「ん?」
ブラッドのシャツを掴む指から力が抜ける。落ちて行く彼女を見詰めて、男は酷薄に嗤った。
「こんなに愉快で・・・・・不愉快で・・・・・心の底から誰かを八つ裂きにしたくなるなんて、初めてだ」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「だから、もう少し寝てなさい」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「君の口から、彼を擁護する台詞は、今は、聞きたくないからなぁ」
ああ。可哀そうなアリス。
抱きしめて、ブラッドはにたりと笑った。
「二度と君に会えない勇者の代わりに、私が姫を慰めてあげよう」
時間を掛けて、愛し抜いてあげるからな?
ふわりと、満足そうに笑うアリスに、深く口付けて、ブラッドはそっとベッドから起き上がった。
冷たく鋭い、醒めた眼差しで考え込む。その手は、アリスの身体を柔らかく愛しむように撫でている。
「・・・・・・・・・・・・・・・この女は、私のものだ」
暗く、でもどこか熱っぽい声が、しんとした室内に落ちて響く。
「それを、少しでも堪能した男・・・・・」
くすり、とブラッドは哂った。
驚いた顔。間の悪そうな顔。ばつの悪そうな顔。口惜しそうな、顔。
アリスを抱いた男が見せた、その表情。
「さて、どうしてくれようか」
自分だけの薔薇を手折られたような感触は、ブラッドの中で静かに静かに火となって灯った。
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