艶めく夜を高速落下
「アリス?」
「え?」
声を掛けられて、アリスは思わず顔を上げた。夕方の駅前は、家路を急ぐ人の波でごった返している。
その中で、鞄一つ抱えて、膝を抱えるようにして噴水に腰掛けていたアリスに、柔らかな眼差しが注がれた。
「・・・・・・・・・・先生」
喉がひりつく。
どうしてこんなどん底で、彼に会うのだろうか。
「どうしたんだ?」
おろおろとした様子で、彼が手を伸ばす。秋の夜気は冷たく、先生の手は暖かく、アリスは目元にじわりと湧きあがった涙を、堪える事が出来なかった。
「アリス・・・・・」
息をのむ男に、アリスは何も言えず、唇を噛んで俯いた。
「家出?」
狭い部屋。ベッドとパソコンの載ったキャビネットと、それからキッチンにテーブル。それだけで埋まってしまう男所帯を見渡していたアリスは、目の前に置かれたカップに視線を落とした。
ふわりと独特の香りがするそれは、カフェオレだ。
久々に、それを飲むアリスは、向かいに腰をおろして目を見開く男に、こっくりと頷いた。
「なんでまた・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
理由は簡単だ。
家主に嫌気がさしたから。
ハイスクールの頃、彼女の家庭教師をしてくれたこの先生は、今では立派に教師として働いている。本棚にある専門書や、ファイル、机に広げられた資料なんかで彼が忙しい事に気づく。
アリスは少し居心地が悪くなった。
噴水広場で、彼の胸に縋りついて泣いたのは、つい先ほど。砂糖より甘いこの男は、アリスを何も言わずにここに連れてきてくれた。
でも、何も話さないのも気が咎めて、アリスはぽつりぽつりと最近の出来事を話していた。
家主の素性と関係を隠して。
「ああ、ごめん。言いたくないよね?」
黙り込んだアリスに気付いて、先生は優しく告げる。じんわりと心の奥が暖かくなるような言葉と、困ったような笑みに、アリスは何も言えなくなった。
優しい人。
心から心配してくれていると判る。
そうだ。この人は優しかった。
ほんの数か月、この人と付き合った。先生が教師を目指す為に、都会に行くと決めて、自然と二人の仲は壊れてしまった。
遠距離恋愛が出来るほど、アリスは人生経験が豊富ではなかったし、夢を追う男は忙しかった。
いいや、本当に愛情が有れば、そんなものは関係なかったのかもしれない。
間違えたのか、幼かったのか、愛だったのか、違うのか。
でも、再びこの人を前にして、アリスはふわりと心の凍っていた場所が暖かくなり、涙が滲みそうなほどの温かさを感じずには要られなかった。
「・・・・・・・・・・これから、どうするんだ?」
俯いて、琥珀色の水面を見詰めていたアリスは、そっと尋ねられた先生の言葉に、ゆるゆると首を振った。
あてはない。
戻りたくもない。
多少の貯金はあるが、口座が凍結されるのは時間の問題だろう。
自分の家主は、そういう手段に長けているのだ。
(・・・・・・・・・・・・・・・。)
嗤いながら、アリスが帰ってくるのを待っているはずだ。帰るしか方法が無いと知っているから。
そして、アリスに手を伸ばして、誰かを抱いたその手で、アリスに触れるのだ。
力一杯唇を噛み、テーブルの上で握りしめた手が白くなっている。それに目を止めた先生が、「アリス」と柔らかな声で名前を呼んだ。
「っ」
力のこもる彼女の拳に、男はそっと手を乗せた。
「気になってたんだ。こっちに帰ってきたら、君は居なくて・・・・・病院に、君のお姉さんが入院してるって知って、会いに行った。君はどこかでちゃんと暮らしてるって訊いて安心したんだけど・・・・・どうやら、違うみたいだね?」
そっと囁かれる甘い言葉。それに、アリスは自分の感情が決壊しそうなのに気付いた。
「何があったの?どうして・・・・・そんな暗い顔をしてるんだ?」
何の力にもなれないかもしれないけど、教えて?
見詰めてくる碧の瞳。
それは、自分の家主と同じ色なのに、どこまでも柔らかくて、縋って泣きそうになる。
・・・・・・・・・・・・・・・どうしてそれが駄目なんだ?
縋って泣いたって構わないじゃないか。
何を戸惑っている?
ふと気付いたそれに、アリスは目を瞬く。
好きだった。
愛じゃなかったかもしれない。
幼い恋愛だった。
置いていかれたと勝手に思って、勝手に気持ちに封をして、邪魔をしてはいけないからと諦めた。
でも、今は?
手を伸ばすそこに、焦がれた人がいるではないか。
「先生・・・・・」
アリスの赤い唇が、震えた声を紡ぎ、彼女は俯いて涙を流す。男の手が、その涙をぬぐい、そっと彼女を抱きしめた。
「どうしたんだ?アリス・・・・・教えてくれ」
君は幸せになっているだろうと思って、想いに蓋をしたのに、そんな風に泣かれたら、失敗したと思ってしまう。
耳元で言われた、固い台詞に、アリスははっと顔を上げた。
とくんとくん、と心臓が音を立てる。
「手を離さなければ良かったと・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
涙で何も見えない。
自分の気持ちも、郷愁も、それは恋なのか愛なのか憧れなのか違うのか。
何も分からない。
判らないから、知りたいと、アリスは男の首に縋りついて、声を上げて泣いた。
結局はここにしか居場所が無いのだと、彼女が気付いて戻ってくるまで、ブラッドはアリスを迎えに行く気はなかった。
それに、その瞬間は直ぐに来ると知っても居たから。
だが、三日たち、一週間たち、それでも彼女が戻らないのに、いささか・・・・・というよりも尋常じゃないほど彼は苛立っていた。
今更追うのもプライドが許さない。
部下に命じて、アリスの行方を捜させているが、なかなか見つからない。
彼が通わせている大学にも彼女は姿を現さない。
彼女が「組織」の仕事で貯めた金は、下ろせないようにしてある。だから、金銭的な面でも、彼女は途方に暮れて戻ってくるに決まっているのだ。
別の「組織」に拉致されたか、鞍替えしたかと自分の住まう世界も仔細に調べるが、いかがわしい店やそういったプロダクションに彼女が出入りしているという情報もない。
忽然と、陽のあたる世界に溶け込んでしまった己の女に、ブラッドが歯噛する。
女など掃いて捨てるほど、自分の傍にいる。手を出すにも選り取り見取りだ。
だが、どんな女を抱いても、癒されない渇きがあって、ブラッドはどす黒い欲望を抱えたまま不機嫌でソファに座りこんでいる。
注がれたグラスの琥珀を見詰めて、舌打ちする。
隣の寝室には、極上の美女が横たわっているが、喰ってみて美味しくない事に気付いた。
自分本位に無茶苦茶にして、放っておいて。なのに、余計に乾いていく。
詰まらない。
面白くない。
苛立たしい。
全てが、灰色にみえる。
ローテーブルのグラスを壁に叩きつけて、ブラッドは部屋を出た。
高級マンションの最上階。ワンフロアをぶち抜いて作られたブラッドの部屋は豪華で華美で、トンデモナイ。
そこに、紛れ込んできた余所者の女。どこかの組織の人間でもなく、ただの借金のカタだった筈だ。
暇つぶしに仕事を手伝わせ、ほんの少し見せてやった優しさに、絆された彼女を翻弄して嬲って弄んだ。
最高の暇つぶし。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
その彼女がどうしてここから消えたのか、ブラッドは判らない。
判らない・・・・・振りをしている。
彼女を抱くたびに、彼女は決してよがらない。閉じた瞼に別の人間を思い描いて、耐えているようにしか思えない。だから、何度も何度もブラッドは「名前を呼べ。縋れ。そうすれば優しくしてやる」と言い続けた。
その彼女が、一瞬だけ見せた、脆い一面に、ブラッドは力一杯殴られたような衝撃を受けたのだ。
遊び半分で、手を出した別の女。すり寄る人間の一人。丁度欲しいと思っていた企業の令嬢だと言うから、脅迫にでも使ってやろうかと手を出した。
その一部始終を、彼女に見られ、気付かずにブラッドは、そのまま彼女に触れようとしたのだ。
泣き出しそうな顔。
馬鹿にするなと、詰った声は、かつてないほど怒りに震えていて、見下ろした彼女が酷く傷ついた顔をしていたから、胸が軋んだ。
自分の周りには、特に珍しくもなく転がる出来事。
でも、このお嬢さんには耐えられないような出来事だったのだ。
そう、遅まきながら気付いたブラッドを押しのけて、よろける足で部屋を出る彼女は、振り返ると「死んでしまえばいいのよ」と酷く重く、掠れた声で告げた。
それから、彼女は姿を消してしまった。
胸の内に渦巻いているのは、言い訳めいた台詞ばかり。
君だって遊びだと言っていたではないか。
本気じゃないのだと。
それに私は言い続けた。
愛してないと。
恋人になる気はないと。
ああ、なのになぜ、どうして、傍に居ないだけでこんなにも気になっているのか。
「ブラッド?」
エントランスで出会った腹心に、「何でも良いから車を出せ」と言い、ブラッドは黒塗りの愛車に乗り込む。
革張りのシートに深く腰をおろして、流れて行く景色に視線をやる。
適当に流せ、と言い捨て、ブラッドは考え込む。
居ないだけで、身体が渇く。欲して、求めて、手を伸ばしたくなる。
だが、陽のあたる場所に溶け込んだ彼女は見出せない。
振り返った時に見た、彼女の酷い泣き顔が、今も目蓋に住んでいて、ブラッドの苛立ちを煽るのだ。
何気なく見続ける外の景色。それほど深い時間帯ではない所為か、人々が明るい街灯に照らされた街を歩いていた。
その中で、ブラッドは求め続けた人影を見つけて、目を剥いた。
「エリオット!!」
「おえ!?」
唐突に後ろから「耳」を引っ張られた腹心がぐえ、と変な声を上げてブレーキを踏む。もどかしげに、ブラッドは車外に出た。
人が、あふれている。
繁華街に近いから、愉しそうな男女や、友達同士、家族なんかが、通りにごった返している。
その中で、少し背の高い男の腕に、自分の腕を絡めて歩く彼女が居た。
自分に見せた事のない、柔らかな笑顔を浮かべて。
すうっと、己の血が冷たくなるのをブラッドは感じた。それと同時に、制御出来そうもない怒りも。
つかつかと、ブラッドは二人に向かって歩いていった。
「っ」
「こんばんは、お嬢さん」
外食でもしようか、と誘われて「デートかな?」と浮かれた気持ちで居たアリスは、唐突に目の前に立ちふさがった存在に、血の気が引くのを感じた。
かたかたと、予期せずに身体が震える。
「良い夜だな?」
にっこり笑う。
雰囲気は柔らかいのに、目は決して笑っていない。纏う空気は凍りつきそうなほどで、アリスは一歩も動けず、絡めた腕に力を込めた。
「アリス・・・・・」
そんな彼女の様子に気づいて、彼女の元彼はそっとアリスの顔を覗き込んだ。
「この人は・・・・・?」
どう見ても堅気には見えない、黒のスーツに黒に近いワインレッドのシャツ。ネクタイを締めて立つ姿は絵になるほど、夜の繁華街に馴染んでいた。
アリスが何か答えるより先に、ブラッドが「彼女は私の女だ」とあっさり告げた。
「!?」
ばっとアリスが顔を上げる。怯えた碧の瞳と青白い頬に、ブラッドはにっこりと笑う。
恐ろしいほど、艶やかな笑みだ。
「そうだろ?」
さ、帰るぞ。
拒否は許さない。
誰にも何も言わせない。
すっと手を差し出すブラッドに、アリスは眩暈がした。
「アリス・・・・・」
困惑した様子で自分を見詰める先生に、彼女は泣きたくなった。
「ちがう・・・・・の」
掠れた声で言う。震える彼女に気付いた男が、奥歯を噛みしめてブラッドを見上げた。
「彼女に、酷い事をしたのは、貴方ですか?」
「先生!!」
思わず、アリスが声を荒げる。
「・・・・・・・・・・酷い事、とは?」
興味なさそうに、首に手をやって尋ねるブラッドに、男は低い声で「アリスの身体には」と囁く。
ブラッドが明らかにぎょっとなる。
それに、男は構わず続けた。
「酷い痕が残っていた」
「先生っ!!!」
押しやるように、ブラッドと先生の間に割り込んで、アリスはぎゅっと先生に抱きついた。
お願いだから、もう何も言わないでほしい。
どうなるか判るから。
この人に喧嘩を売って、生きて戻れた人間はいないのだから。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ほう」
長い沈黙ののちに、ブラッドの低すぎる声が、雑踏にまぎれることなく響いて落ちた。
「見た、のか?それともアリス・・・・・君が見せたのか?」
空気が凍り、殺気に肌が震える。先生に縋りついた指が凍って動かない。かたかたと震える身体のまま、アリスは唇を噛んで頷いた。
「別に・・・・・構わないでしょう?」
ブラッドに押し倒されて見た、彼の首筋の鬱血の痕。
そんなものを残せるほど、アリスは手練手管を持っていない。
男に翻弄されるので精一杯。
なのに、これ見よがしに付けられていた痕に、アリスは嘲笑われた気がしたのだ。
お前など、駆け引きをして、気を使うほどの女ではないのだと。
だから、意趣返しだ。
ザマミロ。
私はあんたなんか愛してない。愛してないし恋してない。
私が欲しいのはこの人だから。
だから。
だから・・・・。
「私が誰に抱かれようと、問題ないはずでしょ?」
貴方だってそうだったんだから。
吐き捨てられたアリスの台詞は、ブラッドに導火線に火を付ける。
「そうか」
ぞっとするほど低い声。アリスがその意味に気付くより先に、ブラッドはぱちん、と指を鳴らしていた。
「!?」
「来なさい」
「アリス!!!」
「先生に酷い事しないでっ!!!!」
一瞬で現れた黒服に、男が囲まれる。引き離されたアリスが、ブラッドに手首を掴まれて捻りあげられた。
「ブラッドっ!!!!」
「連れていけ」
「アリスっ!!!」
「嫌よ!止めてっ!!冗談じゃないわ!!何考えてるのよ!?」
喚くアリスを無言で引きずり、ブラッドは乱暴に彼女を車に押し込めた。
「止めてって・・・・・止めてっ!!!」
力一杯、己に迫る男の胸に拳をぶつける。その両手を掴み、ブラッドは片頬を上げて笑った。
「君が二度と浮気をしないと誓うなら、あの男は無傷で解放してやろう」
「っ」
「君は」
する、と伸ばされた長い指が、アリスの喉に絡む。シートに押し倒されて、指に軽く力がこもった。
「とんでもない過ちを犯した」
「・・・・・・・・・・」
「よりによって、別の男に抱かれるとは。とんでもない失敗だぞ、アリス」
がくがくと震える彼女の唇に、キスを落とし、ブラッドは焦げてしまいそうなほど強い光の滲んだ眼差しでアリスを覗き込む。
「言え。私の女になると」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「二度と他の男に触れさせないと。誓うなら、百万回殺しても足りないほど腹立たしいあの男を解放してやる」
涙が膨れ上がる。
一度だけ、せがんで抱いてくれた、先生に申し訳ない。
あの時感じたのは、空虚な想いばかりで、閉じた瞼に浮かんだブラッドに泣きそうになって、抱かれる傍から寂しくて寂しくて、あのころに戻れない自分に愕然としたのに。
何が正しいのか判らない。
翻弄されて振り回されて、無茶苦茶を言われる。
ブラッドの女になるのは簡単だ。
手を出されて甘んじて受け入れる地位だろう。
でも、アリスはそんなものは欲しくないのだ。
他の女に触れた手で触れないで。
乱暴にしないで。
愛して愛して、力一杯優しくして。
「貴方がっ」
ぼろぼろと、アリスの目尻から涙が零れ落ち、ブラッドが顔をゆがめる。唇をかむ男を見ないまま、アリスはひりつく喉で声を絞り出した。
「私を愛してるって言うならっ・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「いくらでもっ・・・・・」
目を見張るブラッドに、アリスは唇を噛んだ。
「貴方のモノになるわ」
零れた囁きに、ブラッドはしばし沈黙したのち、彼女の耳元に唇を寄せた。
「良いだろう」
「っ」
びくり、と身体を震わせるアリスに、ブラッドは噛みつくように口付けた。絡まる舌に、身体が熱くなる。溶けだしそうな思考。
ブラッドのシャツを握る指が白く強くなる。
顔を離した男が、アリスを見下ろした微笑んだ。
「これから、他の女に手を出さない。」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「愛してる」
それが偽りでも建前でも嘘でもなんでも。
ずくん、と熱くなる身体の芯を持て余し、アリスは目を閉じた。
落ちてくる口付け。
そして、恐らく自分はもう二度と、陽のあたる世界に溶け込む事が出来ないのだと知るのだった。
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