不接触証明
逃げるように、高層マンションから姿を消して、アリスは転げこむように、昔、家庭教師をしてくれた先生の元に逃げ込んだ。
なんとかお金をためるから、アパートを借りる手立てを探してほしい、そうしてくれたら直ぐにでも出て行くから、お願いします、と平謝りに謝り倒したアリスは、何も聞かずに頷いてくれた先生の所から、学校に通っている。
学校だけは、変えることが出来なかった。
だから、飛び出した先の家主がアリスを見つけようと思えば、見つける事が出来るのだが、どういうわけか、彼はアリスの前に現れなかった。
その事がまた、アリスを傷つける。
母に死なれ、姉は入院中。父は失踪。家は差し押さえ、で途方に暮れていたアリスを、単なる気まぐれから拾ったブラッド=デュプレは、ただの親切な男のわけがなかった。
翻弄され、手を出され、無理難題を要求されて、それでも必死にそれをこなしてそこに居たのは、彼の元・・・・・ひいては、彼の手がける組織の元にしか、自分の居場所がないと思っていたからだ。
そこは、物騒なのにどこか明るく、優しく、無体を強いる男がいても気にならなかった筈だった。
アリスが、その家主に抱いてしまった恋心に気付くまでは。
気付いてしまってから、アリスは平静で居られなかった。ただ興味本位で抱かれるのが嫌になる。
愛して欲しいと叫びたくなる。他の女と一緒くたにしないでほしいと、なんどブラッド本人に言いたかった事か。
でもそれが出来ず、結局、ブラッドがどこぞの女性と口付けているのを見て、飛び出してしまったのだ。
愚かな選択だったかもしれない、と先生の元で寝起きしながら、アリスは深い溜息を吐いた。
アパートは、先生が保証人になってくれた上に、しばらく援助してくれるともいう。
仕事はなんとか見つける事が出来た。
学校は・・・・・諦めよう。
せっかく自分の夢の為に通い始めた大学だったが、そんなことを言っていられない。
借金もあるのだし。
今日で、先生の元に間借りするのも最後だと、アリスは彼の為に彼の好きな料理でも作ろうと夜道を歩いていた。
ヘッドライトの明かりが右から左へと流れて行く、割と繁華な通り。そろそろ閉店準備に入ろうか、というようなショーウィンドーを眺めて、アリスはゆっくりと夕方の街を歩いていた。
先生が好きな物。
ふと、ブラッドに言われて作ったホワイトソースのシチューを思い出して、アリスはふるふると首を振った。
気まぐれだったのか、本気だったのか、「おいしい」と言ってくれたそれが嬉しくて、アリスは数回、彼の為に作ってやった。
アリスが唯一失敗せずに、レシピを見ずに作れる料理となっている。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
それを、かつて好きだった人に出してみようか。
ちくり、と胸が痛むのを感じて、アリスは近くの本屋に立ち寄った。
料理の本を物色する。
全然違うものを作ろう。
全然まったく、これっぽっちも違うもの。
あの、眩暈がしそうな高級マンションの、最上階、ワンフロアをぶち抜いて存在するブラッドの部屋に、どう考えたって不似合いな、庶民的なシチューなどとは違うものを。
秋の旬を使った料理、という本を見かけて、アリスは何気なく手を伸ばした。
その手首を、がっちりと掴まれて、アリスははっと固まる。その掌の感触と温度に、アリスは覚えが有りすぎた。
「何をしているのかな、お嬢さん」
甘い声が耳朶を打つ。だが、それは声音とは反対に、アリスを恐怖のどん底に突き落とした。
学校をやめれば、この男との繋がりは消えてしまう。その為に、急いでアパートを探してもらったのだ。
なのに、何故。
「私の為に、何か作ってくれる気なのか?」
ぐいと引かれて、アリスは斜め後ろに立つ男を見上げる羽目になった。
「・・・・・・・・・・ブラッド・・・・・」
掠れた声が出た。思わず、掴まれている手を引こうとするが、頑として動かない。逆にぎりっと強く掴まれて、アリスは眉間にしわを寄せた。
「っ」
「帰るぞ」
有無を言わせない一言に、アリスは眩暈がする。
「何故?」
気づけば、低い声がアリスの喉から漏れていた。
「もう充分に楽しんだだろう?」
ちらりと彼女に落とされる視線が、凍っている。怯むのを感じながら、アリスは脚に力を入れた。
この男に、一片たりとも弱みを見せてはいけない。
「何を?」
睨むようにして言えば、忌々しそうにブラッドが眉間にしわを寄せた。
「ままごとみたいな生活だ」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「狭い、男の部屋から学校に通うのは愉しかったかな、お嬢さん?」
あんな広さの部屋に二人きりとは・・・・・君は私を怒らせたいようだな。
吐き捨てるように言われ、アリスはそのまま彼に引きずられる。かっと頭に血が上った。
「馬鹿な事言わないで。先生はそんな人じゃない」
喚くアリスの目には、黒塗りのベンツが見えた。オレンジ頭が見え、彼の腹心が運転しているのだと知る。
このままでは、あの、どうしようもなく華美な部屋に連れ戻される。
「離して!」
「あの男の元がそんなに良いのか?私よりも?あんな、馬鹿げた生活が楽しいと言うのか!?」
苛立つブラッドの台詞に、アリスは負けじと口を開く。
「少なくとも、あんたと一緒の生活よりは格段にマシだわ!」
「君はよっぽどの物好きだな」
あんな、箸にも棒にもならないような男がお好みとは。
「先生を悪く言わないで!」
悲鳴を上げる彼女を、車に押し込み、ブラッドは座席に彼女を押し倒す。非常にいかがわしい光景で、通報されても文句は言えない。だが、例え通報されても、この男は圧倒的な力で国家権力すらねじ伏せてしまいかねない。
抵抗するだけ無駄だと知りながらも、アリスは嫌がる。
暴れる。
その彼女を押さえ込み、ブラッドはにたりと口の端を上げた。
「いくらでも悪く言うさ。君があんな場所に戻りたいと思えなくなるようにな」
「止めてっ!!」
「何なら、今すぐにでも殺していしまおうか?」
私以外の男が、君に触れたなどと許せるわけがないからな、アリス。
ぞっとするような声に、本気の色を見てとり、アリスはみるみるうちに青ざめた。
「先生とは何もないわ」
ひりつく喉で告げれば、「一つ屋根の下に、男女が寝起きしてか?」と嘲笑で返される。
「何もないったら!」
「証は?あるのか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・っ」
証。
なにもなかったという証。
真っ赤になって黙り込むアリスに、ブラッドはぎりっと奥歯を噛みしめた。
「やはり、殺すか」
「先生に酷いことしないで!!」
「私になら、酷い事をしても構わないと言うのか!?」
ブラッドのどなり声に、アリスはびくりと身を縮め、そして、ぽかんと彼を見上げた。
今、何と言った?
「君は・・・・・私をどこまで怒らせれば気が済むんだ?忌々しい事に、私は君を殺せない。こんなに腹が立つのに、君を消す事が出来ない。こんな不愉快な事実は我慢できない。」
だから、自分から私を求めろ。
めちゃくちゃな理屈を、低い声で言われて、アリスは混乱する。
彼は、愛してないと言った。
アリスを弄び、翻弄し、愛していると錯覚させるほど、その仕草でアリスを嬲った。
なのに、また、どうしてそんな事を言うのだ。
「私が・・・・・貴方を求めると思うの?」
間近に迫る、端正な顔に、アリスは泣きそうになった。求めてしまえば終わってしまう。
判っているから、逃げ出したのに。
何故捕まえに来るのだ。
放っておいてくれればよかったのに。
これでは勘違いを続けることになる。いや、もっと酷い事態になる。
「貴方はっ・・・・・私を見ても居ないくせに」
「そんな事はない。私には君だけだ、アリス」
「そんな台詞信じない!!」
泣きそうなのを堪えて、アリスは腕を上げて顔を隠す。
「何故?」
する、と頬を撫でる指先を砕いてやりたい。
アリスは、どろどろに黒いものを胸の内ににじませながら、奥歯を噛みしめて呻くように告げた。
「他の女とキスしてたじゃない!!」
貴方こそ、私を不愉快にさせるわっ!!!苛立たせるっ!!!
涙がこぼれる。口惜しくて、口惜しくて、でも閉じた瞼の裏に、この男と違う女のキスシーンが蘇る。
馬鹿は私だ。
逃げ出したのは私だ。
傷ついたのも私。
怒っているのも私なのに。
この男は、それを見てくれない。
ぎり、と唇をかみしめていると、不意にブラッドの手が、その唇に触れた。柔らかく撫でられ、アリスは腕を外して男を睨んだ。見詰める碧の瞳が柔らかい。
「・・・・・・・・・・・・・・・確かめるか?」
「?」
怪訝な顔をするアリスに、「ああ、それがいい」と男はふうわりと笑う。
普段見なれない、優しい笑顔に、アリスは唖然とする。笑んだまま、男は手を伸ばすと、アリスの身体に腕をまわして抱き起こし、深い口づけを落とした。
「んぅ」
漏れると息の他に、音が消える。時折オレンジの街灯が窓から車内を照らしていく。
車は確実に、あのトンデモナイマンションに向かっている。
「・・・・・・・・・・証を見せよう」
「え?」
「私が、君以外抱いていないと・・・・・みせてやる」
それって、どういう意味・・・・・
逃がさない、という意思の現れた腕に囲われて、アリスは呆然と男を見上げた。何を考えているのか判らない。
ふる、と身体を震わせるアリスのこめかみに口付けて、ブラッドは囁いた。
「あのどうしようもない男と何もなかったと言うのも、抱けば判る」
「っ!?」
「いいな?」
なにがいいのか判らない。
さっきまで不機嫌だった癖に、今はアリスを捉えて、首筋に口づけを落としている。
逃げられない。
逃げたいのに逃げられないということは逃げたくないと言う事なのか違うのか。
ぐるぐる眩暈のする頭の中で、アリスはまた、あの豪奢な部屋で良いようにされるのかと、口付けにぼうっとなる頭の隅で考えるのだった。
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