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春、その山を眺め |
相澤さんのふるさとは、8歳から11歳まで過ごした鎌倉です。歴史の町に育ったのも考古学に進んだきっかけの1つだったのかもしれません。
妹の死をきっかけに家族の団らんが壊れ始め、忠洋少年の家族への思いは強くなっていました。そんな頃、住宅の建設現場へ遊びに行き、土器片を見つけ、その土器辺に強く心を引かれ集めていました。調査に来ていた人から大昔の人達が幸せに暮らしていた様を聞き、思いは太古に向けられました。
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露天で買った分銅形石斧 |
ある日露天の骨董屋で30銭の石斧を見つけました。眺めていうちに懐かしい思い出や古代への憧れが強くなり欲しくなるが10銭しか持っていません。「もっていきな!」と言われるほど眺めていました。
納豆の行商をしていれば、朝晩行商に出て日中は発掘が出来ます。「夜学の小学校しか学歴の無い納豆の行商人が考古学をやるのは生意気だ」と心無い人達から中傷を受けていたのです。でも相澤は、「考古学がやりたいから、納豆の行商をしているのだ。サラリーマンでは、時間に拘束され遺跡の踏査が自由に出来ない。目的の手段として行商をしている」と言っていました。
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槍先形尖頭器 |
群馬県新田郡笠懸村に稲荷山、琴平山と呼ばれる小さな丘陵が接して並び、その間に赤土が露呈している切通しがありました。相澤さんは納豆の行商をしながらいつも地層に注意していました。ある時一片の石片を見つけ、これが岩宿遺跡発見の序章となりました。相沢さんは「長さ3センチばかり幅1センチほどの小さなその石片はてのひらのうえで、ガラスのような透明なはだを見せて黒光りしていた。その形は、すすきの葉をきったように両側がカミソリの刃のように鋭かった。」と「岩宿の発見」の中に書いています。
それから約3年後、黒曜石製の完全な形をした 槍先形尖頭器 の発見に至ります。「空にかざして太陽にすかしてみると、じつにきれいにすきとおり、中心部に白雲のようなすじが入っていてね。私にはその美しさが神秘的に思えるのだった。」と「岩宿の発見」の中に書いています。
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昭和20年代の岩宿遺跡 |
昭和24年9月20日付け毎日新聞東京版には二段抜きの見出しに「旧石器の握槌 群馬県で発見 十万年前と推定」と発表されました。そして、本文は以下のとおりでした。
「このほど明大考古学研究室によって、原始人の手で作られた旧石器が発見された。現場は群馬県桐生市外笠懸村字岩宿にある岩宿小丘といい、去る四日地元アマチュア考古学者がここで集めた石削のなかに珍しい形のものがあるのを同教室の杉原助教授が発見、十日から三日間現地試掘をしたところ関東ローム層の下部から旧石器時代特有の形をした横刃型、尖刃型石器十数個をはじめ粘板岩製グトボアン(握槌形石器)も発見したもの。これと同時に出土地点が関東ローム層の下部であるという事実を確認するため東大地質学助教授多田文男氏が十五日現地を再発掘しその地点を確認、遺物包含層を岩宿地層と命名し、その編年学的古さを研究することとなった」(後略)
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夏井戸の崖に向かう相澤さん |
岩宿遺跡を発見した相澤の考古学調査はその後も続きました。発見した遺跡の数は21カ所にものぼっています。そのなかでも、もっとも最後に発見されたのが、現在記念館のある夏井戸遺跡です。
この夏井戸遺跡は約6万年以上前の年代が与えられており、前期旧石器時代のものとされています。相澤はこの場所に廃バスをもちこみ、「赤城人類文化研究所旧石器研究室」を開設したのです。そして、仲間たちと共同で発掘をおこないました。そして、いつの日かこの夏井戸から旧石器時代人の人骨を掘り出すことを夢見てたのです。
「関東ローム層の中に、石器を残し使った担い手は、いずれにしても日本列島の中にいたと、私は確信しております、ただ、骨が出ない。それは、いま出ると壊されてしまうから、もう少し静かになったら出てこようと待っているのだと思います。私の目の前、赤土のむこうに、もう少しの所まで骨が出てきているのですが、赤土の陰に出ないで待っていて、使った道具だけを、私どもの目の前に出してくれているのだと思います。」(相澤忠洋『地下に歴史を掘る』より)
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夏井戸遺跡遠望 |
夏井戸遺跡の予備発掘 |
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開設当初の赤城人類文化研究所 |
夏井戸遺跡出土の石器 |