告知(抗議)!

          「小林達雄教授の朝日新聞文化欄掲載の一文についてお問い合わせ」

  当館名誉館長、芹沢長介先生が2006年3月16日急逝され、仙台市内において、通夜(19日)本葬(
20日)を合わせ1,200人を越す会葬者により盛大なご葬儀が執り行われました。

  早速、その翌日の3月21日、朝日新聞、文化欄に『旧石器考古学と芹沢長介―日本列島の歴史追い
続けた』と題して小林達雄国学院大学教授の一文が掲載されました。その文中に二、三個所気になる記
述があり、特に相澤忠洋に関する記述について本館として看過できず抗議申し上げます。

  それは、芹沢長介先生と相澤の出会いについて『 ・・・・岩宿遺跡を発見した故相澤忠洋氏との運命的
な出会いがあった・・・中略・・・相澤さんが拾い集めた石器を尋常でないと見抜き、旧石器文化研究の道
を拓いた瞬間である・・・後略』と記しています。たしかに最初の1946年の石器は、切通しの崖面が崩落
した赤土中から採集したものですが、しかし、その資料から疑問を抱き 岩宿に何度も足を運び 地層を観
察し赤土層の中から石器が出土する事を確信していたのです。 そして最初の石器採集から約3年後の
1949年7月発見の黒曜石の槍先形尖頭器は、 赤土の中に顔を出している状態で発見し引き抜いたの
です。この事は、相澤の著書「岩宿の発見」に克明に記しております。従って 「拾った」 石器ではなく、む
しろ出土層位がはっきりしている発掘資料と同等の価値を持つ資料ではないでしょうか。

  相澤が芹沢先生の要請を受け岩宿出土の石器を持参して上京し、ご覧戴きました。 この時芹沢先生は
縄文時代以前の石器との認識を持たれたのです。この事を小林教授は「尋常でないと見抜き」と表現され
ています。 それに比べ杉原荘介先生は試掘の段階では土器を伴う縄文の遺跡ではないかとの認識だっ
たのです。 (『群馬県岩宿発見の石器文化』1956年9月の8頁)又、1955年11月明治大学で開催され
た座談会―「日本旧石器研究の現状と諸問題」―の対談で自ら次の様に語っています。

  「・・・・しかし最初に現場に行った時は、土器が全然伴わないのだという確信はなく、相澤君の持ってき
た石片が、どんな土器を伴うかを調べるつもりだった。というのが本当の気持ちでしたね。相澤くんの発見
がこの文化研究に大きく作用したことは言えますが、 はじめは今日のような状況に立ち至るとは思ってい
ませんでした。(杉原荘介 1956)と言う発言が記録されているのはどういうことであろうか・・以下略・・」
と芹沢先生は「追憶・相澤忠洋」(共書) (2005年3月、相澤忠洋顕彰刊行会発行)の中に引用文献、戸
沢充則(司会)「ミクロリス・1956年第13号9〜13頁」と書いておられます。この事は同時に岩宿の資料を
実見した二人の先生の認識が違っていたということです。芹沢先生は縄文時代以前の石器と確信しました。
しかし、杉原先生はそうではなかった。ご自身が岩宿で「ハンドアックス」を掘り当てた事により旧石器の遺
跡と認め、明大の本格的発掘がなされたのです。 試掘に参加した明大関係、杉原荘介、芹沢長介、岡本
勇の3名、相澤関係は相澤忠洋、加藤正義、堀越靖久の3名、計6名によって発掘した資料は明大所蔵で
現在、国の重要文化財に指定されております。 しかしこの発掘調査の契機となった相澤発掘の黒曜石製
の槍先形尖頭器をはじめとする一連の資料は半世紀以上過ぎた現在も、何の文化財の指定も受けていま
せん。しかし、まぎれもなく相澤の発見した赤土層より出土した石器によって、我国にも縄文文化よりさらに
古い文化があり日本旧石器文化研究は始まったのです。学識豊かな小林教授ですら「相澤が拾い集めた
石器」との認識と表現は学史上も問題です。 小林教授のご見識を改めて早急にお聞かせ戴きたいと存じ
ます。

 平成18年3月22日
                               相澤忠洋記念館 
                                   館長 相澤千恵子


以下の書籍は2005年発刊したものです。

十七回忌記念出版
  追憶相澤忠洋


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